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当初は電気窯を使っていたため、夜しか焼けない(電力供給の問題か?)、ヒューズが切れた、停電などの理由で、作業が進まないことがあり、『真如能光』の歌日記には「電気釜ヒューズが切れて楽素焼今日一日を棒に振りけり」など作業中止の歌がたびたび掲載されている。当初は電気窯を使っていたため、夜しか焼けない(電力供給の問題か?)、ヒューズが切れた、停電などの理由で、作業が進まないことがあり、『真如能光』の歌日記には「電気釜ヒューズが切れて楽素焼今日一日を棒に振りけり」<ref>『真如能光』大正15年(1926年)6月5日号p12 歌日記の5月11日の項</ref>など作業中止の歌がたびたび掲載されている。
耀盌
,→前期の歴史
当初は素焼きの茶碗を大量に購入し、王仁三郎が絵付けをして、電気窯で焼き上げるというスタイルで作陶が行われていた。完成した茶碗は短歌や句の賞品としてもどんどん与えられて行った。前期の楽焼作りを手伝ったのは[[谷前清子]]である。<ref name="rakuinmondai8" />
昭和4年(1929年)7月20日に[[天恩郷]]に楽焼製作所の「[[清楽舎]]」(後に「蓮月庵」と改名)が竣工する。その隣には楽焼窯が作られ「[[亀楽窯]]」と命名された。この亀楽窯を作ったのは京都清水の陶工の[[佐々木吉之介]]([[佐々木松楽]]の父)である。<ref name="rakuinmondai8" />