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辻天水

409 バイト追加, 2023年11月9日 (木) 08:54
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* その数日後<ref>中矢『大本裏神業の真相』p.199</ref>のこと。辻は和歌を詠むときの号として「天如(てんにょ)」と名乗っていたが、日出麿に「天水にしなはれ」と勧められ、天水に改めた。天=日=火とすると、天水とは火水(かみ)を意味する。
* 昭和9年(1934年)1月、娘の多鶴子(たづこ)が病死。妻のゆきは実家に帰った(昭和20年5月に逝去)。<ref name="nakaya_p199">中矢『大本裏神業の真相』p.199</ref>
* 同9年2月7日、[[三雲龍三]](1914~1945年)の家で辻が辻家伝来の刀を用いて剣の祭が行われた。その後その刀は辻によって王仁三郎に献上される。王仁三郎は刀の辻家の家紋を見て驚き、この刀を「神聖丸」と命名し、その後7月22日に発会した[[昭和神聖会]]の護り刀となった。<ref name="nakaya_p199" /> <ref>『[[三雲龍三神示と神一厘の仕組]]』pp.326-327</ref> (三雲龍三は昭和9年に大本入信。滋賀県大津市の自宅に帰ってから神がかりとなり神示が降りるようになる。三雲に降りた神示の大部分は昭和18年から19年に出されたものである<ref>『[[三雲龍三神示と神一厘の仕組]]』p.343, p.346</ref>)
* 同年(月日不明)日出麿が再び辻家を訪れた。<ref name="nakaya_p199" />
* 昭和10年(1935年)、辻は大本の奉仕者として、神号を認めたり、辞令を浄書する仕事に従事していた。そこへ王仁三郎が立ち寄った。辻は宣伝使を拝命したいと申し出たが、王仁三郎に「それはあかん」「ここにおれ。お前には重要な使命がある」と言われた。数日後、再び王仁三郎が辻の仕事場やって来た。辻は紙に「大本皇大神」と神号を書くところを、どうしたわけか「大」と「本」の字間を大きく離して書いてしまった。すると王仁三郎は筆をとり、「大」と「本」の間に「日」の字を書き入れ「大日本皇大神」とした。王仁三郎は辻にその書をやると言い「いずれ大事な時に使うことになる」「一厘の仕組をあんたにやってもらう」「わしが捕まったら神業の続きをする者がおらん。そやからわしの代わりに裏の神業をやってくれ」と辻に言った。昭和10年(1935年)<ref>『[[三雲龍三神示と神一厘の仕組]]』p.213, p.326によると昭和10年だが、中矢『大本裏神業の真相』p.199では昭和9年になっている。昭和10年2月7日は穴太で神聖神社の鎮座祭が大吹雪の中、執行されている。</ref>2月7日、[[三雲龍三]](1914~1945年)の家で辻が辻家伝来の刀を用いて<ref>『[[三雲龍三神示と神一厘の仕組]]』では辻家の刀だということは書かれていない。</ref>剣の祭典が行われた。その後その刀は辻によって王仁三郎に献上される。王仁三郎は刀の辻家の家紋を見て驚き、この刀を「神聖丸」と命名し、[[昭和神聖会]]の守り刀となった。<ref name="nakaya_p199" /> <ref>『[[三雲龍三神示と神一厘の仕組]]』pp.326-327</ref> (三雲龍三は昭和9年に大本入信。滋賀県大津市の自宅に帰ってから神がかりとなり神示が降りるようになる。三雲に降りた神示の大部分は昭和18年から19年に出されたものである<ref>『[[三雲龍三神示と神一厘の仕組]]』p.343, p.346</ref>)* 昭和10年のある日(年月不明)、辻は大本の奉仕者として、神号を認めたり、辞令を浄書する仕事に従事していた。そこへ王仁三郎が立ち寄った。辻は宣伝使を拝命したいと申し出たが、王仁三郎に「それはあかん」「ここにおれ。お前には重要な使命がある」と言われた。数日後、再び王仁三郎が辻の仕事場やって来た。辻は紙に「大本皇大神」と神号を書くところを、どうしたわけか「大」と「本」の字間を大きく離して書いてしまった。すると王仁三郎は筆をとり、「大」と「本」の間に「日」の字を書き入れ「大日本皇大神」とした。王仁三郎は辻にその書をやると言い「いずれ大事な時に使うことになる」「一厘の仕組をあんたにやってもらう」「わしが捕まったら神業の続きをする者がおらん。そやからわしの代わりに裏の神業をやってくれ」と辻に言った。<ref>豊国「龍宮神示と天言鏡」pp.41-42</ref>
* 第二次大本事件以降もしばらくは亀岡を離れず、学校の教員をしながら大本の動向を見守っていた。
* 辻は[[霊界物語]][[第13巻]]の信天翁(→「[[変性女子は偽者]]」)の「美濃か尾張の国の中」という箇所が、辻の実家がある伊勢のことだと気づいた<ref>王仁三郎が第13巻の信天翁を校正したのは昭和10年3月であるが、公刊されたのは戦後であるため、この時点ではまだ辻は「なぞと慢神してござる」云々と校正されたことを知らなかったと思われる。</ref>。また、辻が大本に奉納した地所を王仁三郎が辻に返して「重要なお地場になる」と言っていたことや、日出麿が実家に来訪した時「大事なとこや」と感嘆していたこと、それに王仁三郎・日出麿が言っていた「カンノシ・シンノウジ(神皇子)」とは大本神諭が言う、八王をおさめる一つの王のことだと考え<ref>友清歓真の著書『霊学筌蹄』の中に「此の蒼生を統べ始めて神の本道に復帰せしめむが為め、又神は渾球《こんきゅう》の表に神皇子にも次ぐべき八の王を造らる、王等おのおの其の主宰するところを色別す」とあり、これは大本神諭の「八王も王が世界にあれば、この世に口舌が絶えんから、一つの王でおさめる経綸《しぐみ》がいたしてあるぞよ」という神示に対応する。その一つの王が「カンノシ」であり「シンノウジ」であると辻は考えた。豊国「龍宮神示と天言鏡」pp.47-48</ref>、自分の使命の重大性を認識し、[[裏神業]]の道に踏み込んで行った。

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