「穴太精乳館」の版間の差分

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
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霊界物語では[[第37巻]]に何度か出る。(初出:{{rm|37|2|葱節}})
 
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[[郷神社]]の裏の竹藪のあたりに穴太精乳館があった。
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[[神明社]]の裏の竹藪のあたりに穴太精乳館があった。 →位置の詳細は「[[穴太]]」を見よ
  
 
== 参考文献 ==
 
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2022年9月22日 (木) 19:09時点における最新版

穴太精乳館(あなおせいにゅうかん)は、上田喜三郎が明治29年(1896年)1月1日に、穴太の生家近くで開業した牧畜・搾乳・牛乳配達の会社で「穴太精乳館」と呼ぶ。また「上田牧牛場」とも呼ぶ。

園部井上猶吉の牧場で、牧畜や獣医学を学んだ喜三郎は、当時日本国内で新事業として開発途上にあった搾乳業をやろうと考え、最初は園部に牧場を建設した。しかし父母から、牧畜で身を立てるつもりなら郷里でやって欲しいと頼まれ、園部の牧場は上仲儀太郎に任せ[1]、穴太で牧場を開くことにした。

資金を調達するため、村上信太郎上田正定(村上の妻おえんの弟で、小幡神社宮司)を誘った。三人の共同経営となったが、実務は唯一の牧畜経験者である喜三郎が一人で行い、上田正定は経理事務を担当した。牧場の土地は村上の所有である。

当時の牛乳は栄養を摂る滋養強壮剤的なもので入手しづらく、搾乳業は目新しい事業だった。時代を先取りした精乳館は成功を収め繁盛した。しかし明治31年の高熊山修業の後は宗教活動に専念するため経営から手を引いた。

霊界物語では第37巻に何度か出る。(初出:第37巻第2章葱節#

神明社の裏の竹藪のあたりに穴太精乳館があった。 →位置の詳細は「穴太」を見よ

参考文献

脚注

  1. この牧場は上仲牧場と呼ばれ、やはり明治29年1月1日に開業した。(「本教創世記」による)