上田吉松
上田吉松(うえだ きちまつ)は、
明治4年(1871年)12月27日(新暦1872年2月5日)に帰幽した。(この帰幽日について異説がある。→「#祖父・吉松の帰幽日」)
(2) 出口王仁三郎の父。旧名・佐野梅吉(さの うめきち)。先代・吉松の養子となり、世祢と結婚した。
佐野梅吉は船井郡川辺村字船岡(現・南丹市園部町船岡)の佐野五郎右衛門の第八男として生まれた(ただしこれは王仁三郎が書いた「故郷乃弐拾八年」による。戸籍によると佐野清六の次男[1])。男9人・女4人の13人兄弟。癇癪が強く腹が立つと親でも殴りつけるという乱暴な子であったため、懲らしめのため、八木町の醤油屋「醤油角」へ丁稚奉公に出された。主人からは、正直者、律義者として寵愛された。[2]
十年の年期を勤め、23歳(数え)の時に、穴太の富豪・斎藤庄兵衛に雇われ住み込みとなった。明治3年(1870年)26歳の春に、斎藤の媒酌で上田家の婿養子となった。[2]
養父・上田吉松の帰幽後、「吉松」を襲名する。
通称は「梅吉」「佐太郎」の二称あった。[3]
「ブラブラ病」で2~3年間苦しみ、明治30年(1897年)7月21日(旧6月22日)、53歳[4]で帰幽する。[5] [6]
「吉松」の読み方
「よしまつ」とフリガナを付けている文献が一部あるが、ほとんどは「きちまつ」である。したがって本項でも読み方を「きちまつ」にした。
- 「本教創世記」(明治37年執筆、著作集収録)では「よしまつ」。[7]
- 「伊都能売神諭」では「よしまつ」。[8]
- 「故郷乃弐拾八年」では「きちまつ」。[9]
- 「皇道大本の信仰」(昭和9年発表)では「きちまつ」。[10]
- 『聖師伝』では「きちまつ」。[11]
- 『大地の母』では「きちまつ」。[12]
- 『大本七十年史』ではフリガナが無い。[13]
祖父・吉松の帰幽日
出口王仁三郎の祖父・上田吉松は、明治4年(1871年)12月27日(新暦1872年2月5日)に59歳[14]で帰幽した。この帰幽日について異なる解釈がある。「故郷乃弐拾八年」には「祖父の吉松は、明治四年の冬十二月廿七日に帰幽した。王仁(わたし)が誕生後六ケ月目である」と記されている[15]。ここより前の方に(父母は)「明治四年七月十二日を以て一子を挙げた」[16]とあるので、旧暦だと考えられる(新暦は明治6年以降)。旧12月27日は新の2月5日に該当する。しかし「大本年表」では12月27日を新暦だと解釈し、旧暦11月16日と記している[17]。新暦だとすると王仁三郎が生まれた新8月27日(旧7月12日)から新12月27日までちょうど4ヶ月であり、「誕生後六ケ月目」という記述は違和感がある。旧暦なら旧7月12日から旧12月27日まで5ヶ月と15ヶ日であり、「誕生後六ケ月目」という記述でおかしくない。12月27日は旧暦と考えるのが妥当である。
脚注
- ↑ 『大本七十年史 上巻』「幼年期#」
- ↑ 2.0 2.1 「故郷乃弐拾八年」
- ↑ 「本教創世記」
- ↑ 帰幽した年齢は文献によって異なるが、「故郷乃弐拾八年」に「二十六歳の春、明治三年に斎藤氏の媒酌で、上田家の養子と成り」と書いてあり、それを基準にするなら明治30年は数えで53歳になる。
- ↑ 第37巻第2章「葱節」#
- ↑ 『聖師伝』「父の死#」
- ↑ 『出口王仁三郎著作集 第一巻』p.59「其次が上田吉(よし)松で」(「よし」だけフリガナが付いている)ただし原本(写本)にフリガナが付いていたとは思えないので、編者が付けたのだと思われる。
- ↑ 大本神諭には「吉松」は出ない。伊都能売神諭には次の1回だけ「吉松」が出る。「伊都能売神諭伊都能売神諭 大正7年12月26日#」『神霊界』大正8年(1919年)1月1日号p.17 2行目
- ↑ 『神霊界』大正10年(1921年)2月1日号p.36「水呑百姓の上田吉松(きちまつ)と曰ふのが、王仁の父である」他多数
- ↑ 国立国会図書館デジタルコレクション蔵書『皇道大本の信仰(日本宗教講座 5)』 PID:1908057/1/221 p.7 4行目「農夫、上田吉松(きちまつ)の長男として生れました」
- ↑ 『聖師伝』「一、御誕生#」p.1「穴太の農家上田吉松(きちまつ)氏の家に」他多数
- ↑ 『大地の母』みいづ舎版第1巻「深山の草」p.8「宇能は夫吉松(きちまつ)と」
- ↑ 「吉松」の初出は『大本七十年史 上巻』「出生#」p.107
- ↑ 『神霊界』大正10年(1921年)2月1日号p.37上9行目「祖父は五十九才で帰幽し」
- ↑ 同p.39
- ↑ 同p.37
- ↑ 「12・27(11・16)」