三田村四郎
三田村四郎(みたむら しろう、1896~1964年)は、労働運動活動家で、日本共産党幹部。逃亡生活中に赤児を王仁三郎に託したことがある。王仁三郎は三田村の子だということを隠して育てたため、「王仁三郎の隠し子」という噂が立ってしまった、という逸話がある。
概要
引き受けたからにはなんとしても赤児をたいせつに育てねばならない。しかも、三田村の子であることをあくまで伏せて。
こんないきさつがあってからまもなく、大本の内外に妙なうわさが流れはじめた。「聖師さんにかくし子があるそうや」、「ワニさん女子に手をつけて、子生ましよったそうや」。うわさはだんだん高くなり、やがて、すみ夫人の耳にもはいる。すみ夫人が当否を問いただしたところ、意外にも王仁三郎はこれを認めてしまった。さあ、それからがたいへんだった。
「死ぬの走るの暇くれの、殺すの殺せの」と、悋気喧嘩で他人をおどろかすほどではあるまいけれど、いかに太っ腹とはいえ、夫人は猛烈におこりだす。王仁三郎は、とみれば、「すまん」「かんにんしてくれ」と平身低頭の一本槍である。娘の直日の思い出によるとすみ夫人は第二次大本事件前まで三田村の子とは知らなかったそうだ。
かくし子うんぬんで世間がなにかととりざたをする状態が十何年とつづくのであるが、終戦後、三田村が地下から顔を出すと[2]、事態はガラッと変わってしまった。というのは、いままで、王仁三郎のかくし子だとばかり思っていた問題の娘と三田村が、名のりをあげて父娘の対面をおこある。しかも、あのときあずかった赤児はもうすっかり娘に成長しているではないか。
ことの仔細は、赤児の素性の秘密を守るためと、養育の万全を期するため、王仁三郎がうった芝居だったのだ。王仁三郎はさる信徒に、「わしが失敗してもたんや」、と赤児をあずけ、「ないしょにしといてや」と頼んだ。熱烈なワニ・ファンの信徒は、「聖師さんの子や」とこの娘を育てあげたわけだが、「ないしょ」のほうはそうはいかなかった。それで、「自分は聖師さんの子や」と、当の子ども自身が大きくなるまで信じこんでいたのである。これでは周囲が真に受けてワイワイいうのもむりはない。『労働運動見たまま 第1集』(1947年、時事通信社)の「三田村四郎」の項に〈ただ彼のために一言弁護したいのは大本教の出口王仁三郎師との関係は彼の大阪時代の遺児を出口が世話をしていることで、それ以上の何物でもないということである〉(261頁、NDLDL蔵書 PID:1454276/1/137)と記されている。
この弁護というのは、三田村が王仁三郎から資金供与を受けていたと当局が睨んでいたため(おそらく誤解)、三田村が王仁三郎と深い関係があると左翼業界から疎んじられていたようである。(『木戸幸一関係文書』(1966年11月刊)に「王仁三郎ヨリ嘗テ三田村四郎等ニ共産党資金ヲ供与セル事実アリト」という記述がある)
外部リンク
- 三田村四郎 - ウィキペディア