上田吉松
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上田吉松(うえだ きちまつ)は、
明治4年(1871年)12月27日(新暦1872年2月5日)に59歳[1]で帰幽した。この帰幽日について異なる解釈がある。「故郷乃弐拾八年」には「祖父の吉松は、明治四年の冬十二月廿七日に帰幽した。王仁(わたし)が誕生後六ケ月目である」と記されている[2]。ここより前の方に(父母は)「明治四年七月十二日を以て一子を挙げた」[3]とあるので、旧暦だと考えられる(新暦は明治6年以降)。旧12月27日は新の2月5日に該当する。しかし「大本年表」では12月27日を新暦だと解釈し、旧暦11月16日と記している[4]。新暦だとすると王仁三郎が生まれた新8月27日(旧7月12日)から新12月27日までちょうど4ヶ月であり、「誕生後六ケ月目」という記述は違和感がある。旧暦なら旧7月12日から旧12月27日まで5ヶ月と15ヶ日であり、「誕生後六ケ月目」という記述でおかしくない。12月27日は旧暦と考えるのが妥当である。
(2) 出口王仁三郎の父。旧名・佐野梅吉(さの うめきち)。先代・吉松の養子となり、世祢と結婚した。
「吉松」の読み方
「よしまつ」とフリガナを付けている文献が一部あるが、ほとんどは「きちまつ」である。したがって本項でも読み方を「きちまつ」にした。
脚注
- ↑ 『神霊界』大正10年(1921年)2月1日号p.37上9行目「祖父は五十九才で帰幽し」
- ↑ 同p.39
- ↑ 同p.37
- ↑ 「12・27(11・16)」
- ↑ 『出口王仁三郎著作集 第一巻』p.59「其次が上田吉(よし)松で」(「よし」だけフリガナが付いている)ただし原本(写本)にフリガナが付いていたとは思えないので、編者が付けたのだと思われる。
- ↑ 大本神諭には「吉松」は出ない。伊都能売神諭には次の1回だけ「吉松」が出る。「伊都能売神諭伊都能売神諭 大正7年12月26日#」『神霊界』大正8年(1919年)1月1日号p.17 2行目
- ↑ 『神霊界』大正10年(1921年)2月1日号p.36「水呑百姓の上田吉松(きちまつ)と曰ふのが、王仁の父である」他多数
- ↑ 国立国会図書館デジタルコレクション蔵書『皇道大本の信仰(日本宗教講座 5)』 PID:1908057/1/221 p.7 4行目「農夫、上田吉松(きちまつ)の長男として生れました」
- ↑ 『聖師伝』「一、御誕生#」p.1「穴太の農家上田吉松(きちまつ)氏の家に」他多数
- ↑ 『大地の母』みいづ舎版第1巻「深山の草」p.8「宇能は夫吉松(きちまつ)と」
- ↑ 「吉松」の初出は『大本七十年史 上巻』「出生#」p.107