567
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567は、仏教の弥勒下生思想に因む数字である。釈迦滅後56億7千万年後に弥勒菩薩が地上に下り衆生を済度するという思想から、王仁三郎は567という数字に特別な意味を持たせた。
567にまつわる事柄は次のものがある。
- ミロク。 →「五六七」
- 王仁三郎が霊界探検の際に、女神の姿に変化して半紙に書いた書物の冊数は567冊。[1]
- 霊界物語の口述を始めた最初は、567節(567章)で完成させる予定だった。[2]
- 大峠の際に、大洪水と大地震が続いた日数は567日。[3]
- 大本讃美歌(霊界物語第61巻・第62巻)の歌の数は567。ただし最後の歌は「第五六七の一」と「第五六七の二」の2篇ある。
- 霊界物語の通巻章番号567は第14巻第17章「一寸一服」#である。この章は第4篇「五六七号」に属する。
- 綾部の五六七殿は567畳敷きだった。[4] [5]
- 王仁三郎は昭和3年(1928年)3月3日(旧2月12日)に満56歳7ヵ月を迎えた。
- 昭和3年3月3日の五六七大祭で供えられた玉串料は567円だった。その翌日、高熊山に登山参拝した人数は567人だった。[6]
- 王仁三郎は山科刑務所の中で甘い物を買って「大神」という人と「567番」の人に与え連絡係に使っていた。[7]
- 567を「コロナ」と読むことができる。ただし王仁三郎はそのような読み方はしていない。
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脚注
- ↑ 第1巻第9章「雑草の原野」#:「自分は立派な女神の姿に変化したままで、一生懸命に半紙にむかつて機械的に筆をはしらす。ずゐぶん長い時間であつたが、冊数はたしかに五百六十七であつたやうに思ふ。そこへにはかに何物かの足音が聞えたと思ふまもなく、前の「中」といふ鬼が現はれ、槍の先に数十冊づつ突き刺し、をりからの暴風目がけ中空に散乱させてしまうた」
- ↑ 第8巻序文#:「総じてこの霊界物語は、口述の最初に当り五百六十七節にて完成する考へを以て、一冊を五十節に刻み全十二冊の予定のところ、到底是にてはその一部分をも講了すべからざるを覚り、本巻よりは一冊五十章組の規定を破り、口の車の行き突きばつたりに歩を進むる事と致しました」
- ↑ 第6巻第15章「大洪水(一)」#:「雨は頻りに降りきたり、前後を通じて五百六十七日の、大洪水と大地震」
- ↑ 『惟神の道』「天意に順応せよ#」:「綾部及び亀岡における建造物はみな余がこの蟇目の法によって天柱に繋いで居るのである。綾部のミロク殿は五百六十七畳敷き一間の建物でずいぶん繋ぐのに困難を感じた」
- ↑ 『大本七十年史 上巻』「綾部神苑の拡張と整備#」:「五六七殿は一九一九(大正八)年四月三日に地鎮祭をおこない、翌年の二月に竣工している。それは建坪四四四坪よりなる瓦ぶきの拝殿で、なかに六本の太柱を用い、広間は五二〇畳敷、上段の室をくわえて合計五六七畳敷のおおきな建物である」
- ↑ 『大本史料集成 2』「みろく大祭報告並びに概況 概況#」
- ↑ 『新月の光』0276「五六七と大神」:「山科刑務所の中では、毎日飴やいろいろの甘い物を買われては、既決囚で中の当番であった「大神」という人と「五百六十七番」の人に与えられて連絡係に使われた。この二人は入所中の大本の被告に拇指を見せて「大将が心配するなといっています」といった具合で連絡をしたのである」
- ↑ 第64巻上第15章「大相撲」#:「さうしてヨハネの教祖は先達の世界戦争の開戦期間の日数一千五百六十七日を終り平和条約が締結された其朝、即ち自転倒島で云へば大正七年(旧)十月三日の朝昇天されました」
- ↑ つまり満日数。7/28から7/30までなら、3日ではなく2日と数える。