「大正日日新聞社」の版間の差分

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その後、両紙がどうなったかは不明。
その後、両紙がどうなったかは不明。
== 略年表 ==
* 大正8年(1919年)
** 11月25日:創刊。
* 大正9年(1920年)
** 8月10日:大正日日新聞社の買収を[[五六七殿]]にて発表。
** 8月29日:社債発行。
** 9月25日:新聞再刊。本社にて王仁三郎が斎主となり新聞再刊奉告祭。
* 大正10年(1921年)
** 1月13日:社長以下総辞職。王仁三郎が社長となる。
** 1月20日:朝刊・夕刊共に発行することになる。
** 2月12日:[[第一次大本事件]]勃発。王仁三郎は大阪梅田の本社で検挙される。
** 5月21日:王仁三郎は社長を辞任。[[森国幹造]]が社長に就任。
** 5月25日:森国に代わり[[上滝七五郎]]が社長に就任。
** 8月31日:本社を大阪市北区天満橋筋四丁目22番地に移転。
** 11月16日:社長の[[沼家雲涯]]が辞任。[[御田村竜吉]]が社長に就任。
* 大正11年(1922年)
** 7月13日<ref>七十年史では'''7月15日'''に床次に譲られたことになっている。[[#略史]]参照。</ref>:[[床次正広]]が社長に就任。
** 9月3日(旧7月12日):大正日日新聞は床次正広に全部委任し、今後大本は直接関係しないことになった。大本関係の社員は王仁三郎の名前にて解任された。
** 11月19日:社債整理の相談会。
* 大正12年(1923年)
** 2月10日:本日を以て休刊。
** 3月1日:王仁三郎は大正日日新聞社の一切の権限を[[池沢原治郎]]に委任。(池沢は[[米田誠夫]]に新聞発行の名義や設備を貸し出した)<ref name="B195402c5423_1">{{obc|B195402c5423|文書宣伝}}:〈一九二〇(大正九)年九月二五日以来、大本は「大正日日新聞」を発刊していたが(上巻二編三章)、第一次大本事件によって頓挫したため、聖師は一九二三(大正一二)年三月一日一切の権限を池沢原治郎に委任した。池沢は「大正日日新聞」の名義および設備・備品等の使用料を納めることなどの契約で米田誠夫に貸した。米田は大正一二年三月二八日より同紙を発行していたが契約を履行しなかったため、昭和七年二月に上野音次郎が委任をうけ、池沢への委任を解いた。上野は昭和七年四月一日、「大正日日新聞」の休刊の手続をとり、あらためて復刊する準備をすすめた。〉</ref>
** 3月28日:[[米田誠夫]]が社長に就任。1055号から発行を再開する。
* 大正13年(1924年)
** 8月20日:社債債権人の[[黒田祝]]から債権2万円と利子4896円の返済を請求される。
** 9月10日:黒田の債権について強制競売の通知。本宮山・奥津城・教祖殿・黄金閣等の神苑敷地が差し押さえられる。
** 10月5日:黒田の債権は内金を入れ、21日に差し押さえが解除される。
* 大正14年(1925年)
** 5月7日:債権の訴訟問題が解決(滝川以外の3人の債権)。
* 昭和7年(1932年)
** 2月16日:王仁三郎は[[上野音次郎]]([[上野公園]])に、米田から大正日日新聞社を取り戻すことを委任し、池沢(米田に会社を貸したのは池沢)とは完全に手を切る。<ref>『[[壬申日記]] 4の巻』107頁:〈出口氏は遂に本年'''二月十六日'''米田氏に対する債権取立及び同新聞社の取戻しかたを秘書役上野音次郎氏に委任し同時に池沢氏とは完全に手をきつてしまつた。〉</ref> <ref>2月16日ではなく、3月4日という新聞報道もある。『壬申日記 4の巻』196頁:〈社主出口氏は池沢氏への委任を今年'''三月四日'''付を以て解除し池沢氏は直ちに米田氏への委任経営を解除するに至り、社主側では上野氏が新に委任を受け〉</ref> <ref>『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195402c5423|文書宣伝}}」:〈米田は大正一二年三月二八日より同紙を発行していたが契約を履行しなかったため、昭和七年'''二月'''に上野音次郎が委任をうけ、池沢への委任を解いた。〉</ref>
** 米田はその後、『夕刊大正日日新聞』と名を変えて発行を続ける。(本社所在地は東区北浜四丁目6番地)
** 4月11日:上野は本社を大阪市西区土佐堀通一丁目5番地の肥後橋ビルに移す。<ref>『壬申日記 4の巻』171頁、{{ndldl|1137801/1/100}}</ref>


== 新聞発行の神示 ==
== 新聞発行の神示 ==