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「三大学則」の版間の差分

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
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 一、万有の運化の毫差なきを視て、真神の力を思考す可し。
 一、万有の運化の毫差なきを視て、真神の力を思考す可し。


 一、活物の真性を覚悟して、真神の霊魂を思考す可し。
 一、活物の心性を覚悟して、真神の霊魂を思考す可し。


以上の活経典有り。真神たる故由を知る。何ぞ人為の書巻を学習するを用ひん哉。唯不変不易たる、真鑑実理有る而巳。| (読み方は出典参照)[[#関連文献]](B)『王仁文庫 第九篇』 }}
以上の活経典有り。真神たる故由を知る。何ぞ人為の書巻を学習するを用ひん哉。唯不変不易たる、真鑑実理有る而巳。| (読み方は出典参照)[[#関連文献]](B)『王仁文庫 第九篇』 }}
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* (A)『[[神霊界]]』大正6年(1917年)1月1日号(創刊号)21頁「{{obc|M192919170101c06|皇道大本三大学則}}」
* (A)『[[神霊界]]』大正6年(1917年)1月1日号(創刊号)21頁「{{obc|M192919170101c06|皇道大本三大学則}}」
* (B)『[[王仁文庫]] 第九篇 道の大本』「{{obc|B115009c18|第十五章}}
* (B)『[[王仁文庫]] 第九篇 道の大本』「{{obc|B115009c18|第十五章}}」:この文献では「三、活物の'''心'''性」ではなく「'''真'''性」になっている。
* (C)『[[出口王仁三郎著作集]] 第一巻 神と人間』「本教創世記」{{obc|B195301c09|第三章}}
* (C)『[[出口王仁三郎著作集]] 第一巻 神と人間』「本教創世記」{{obc|B195301c09|第三章}}
* (D)([[教学碑]]の碑文)「{{obc|Z9022|大本三大学則}}」
* (D)([[教学碑]]の碑文)「{{obc|Z9022|大本三大学則}}」

2026年4月16日 (木) 09:07時点における版

教学碑の碑面

三大学則(さんだいがくそく)とは、霊力体の三大元に関する次の三ヶ条のこと。

神の黙示は、即ち吾俯仰観察する、宇宙の霊力体の三大を以てす。

 一、天地の真象を観察して、真神の体を思考す可し。

 一、万有の運化の毫差なきを視て、真神の力を思考す可し。

 一、活物の心性を覚悟して、真神の霊魂を思考す可し。

以上の活経典有り。真神たる故由を知る。何ぞ人為の書巻を学習するを用ひん哉。唯不変不易たる、真鑑実理有る而巳。
出典: (読み方は出典参照)#関連文献(B)『王仁文庫 第九篇』

概要

この三大学則は、出口王仁三郎が明治30年(1897年)8月下旬、神教を請うため小幡神社に夜ひそかに参籠した際、異霊彦命本田親徳の神霊)が王仁三郎に伝えた教えである。[1] [2]

王仁三郎はそれまで宗教回りをして真理の探究を続けていたが、この神教を得てから大いに勇気鼓舞して、さらに各教の教えを探り、誤った宗教を改良しようと励むこととなった。[2]

また王仁三郎は、三大学則は明治31年(1898年)の高熊山修業の際に〈案出したる教義の一部〉だとも述べている。(天恩郷教学碑に刻まれた碑文に記されている #関連文献(D))

『神霊界』創刊号に掲載されている「皇道大本三大学則」には、次のような文言が付加されている。

一 体とは即ち物体にして、化学の所謂元素之れ也、

一 力とは即ち運動の力にして、天体の運行等皆力の所為なり、

一 霊とは即ち神なり吾人の霊魂亦た之に属す、
出典: #関連文献(A)『神霊界』

関連文献

三大学則の原文が掲載されている文献や、それが解説されている文献など。

  • (A)『神霊界』大正6年(1917年)1月1日号(創刊号)21頁「皇道大本三大学則#
  • (B)『王仁文庫 第九篇 道の大本』「第十五章#」:この文献では「三、活物の性」ではなく「性」になっている。
  • (C)『出口王仁三郎著作集 第一巻 神と人間』「本教創世記」第三章#
  • (D)(教学碑の碑文)「大本三大学則#
  • 大本の道』「第二章 三大学則#
  • 王仁文庫 第五篇 道の大原』「第二章#
  • 大本のおしえ』24頁「3 大本三大学則」

三大学則と四大綱領本田親徳著「道の大原」にそのベースとなるものが記されている。

関連項目

脚注

  1. #関連文献(B)『王仁文庫 第九篇』:〈神霊親しく王仁に伝へ玉ひし教旨なり〉
  2. 2.0 2.1 #関連文献(C)『出口王仁三郎著作集 第一巻』:〈明治三十年八月下旬より、またまた産土の小幡神社に夜間ひそかに参籠して神教を請いつつあったが、神は余の至誠を嘉納ましまして、三七日の上がりに、左の如き神教を賜わったのである。(略)後に異霊彦命の御教えたることを覚悟したりけり。〉