「昭和神聖会」の版間の差分

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* 総本部日記:『真如の光』誌に「昭和神聖運動」という題で連載されていた昭和神聖会総本部の日記。「{{obc|B195502c22051|総本部日記 昭和9年}}」「{{obc|B195502c22052|総本部日記 昭和10年}}」
* 総本部日記:『真如の光』誌に「昭和神聖運動」という題で連載されていた昭和神聖会総本部の日記。「{{obc|B195502c22051|総本部日記 昭和9年}}」「{{obc|B195502c22052|総本部日記 昭和10年}}」
* [[大本年表]]
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== 関連項目 ==
* [[昭和青年会]]
* [[昭和坤生会]]


== 脚注 ==
== 脚注 ==

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昭和神聖会の発会式

昭和神聖会(しょうわしんせいかい)は、大本の関連組織。昭和9年に設立。800万人の賛同者を集めた。第二次大本事件によって解散処分となった。昭和神聖会が展開した諸々の活動を総じて「神聖運動」と呼ぶ。

概要

昭和9年(1934年)7月22日、東京・九段の軍人会館で昭和神聖会の発会式が開催された。会の目的は一言で言うと「皇道の実現」である(「#会則等」参照)。活動の中心となっていたのは大本信者であるが、愛国的諸団体・憂国諸名士を結束させようとしたので、発会式には各界から3千人余りが集まって空席がなくなり、会館前にも人々が群がる状態であった。[1]

発会式で祝辞を述べた人には、後藤文夫(内務大臣)、秋田清(衆議院議長)、津村重舎(貴族院議員、津村順天堂の創業者)、安藤紀三郎(陸軍中将)、佐藤清勝(陸軍中将)、渡辺良三(陸軍中将)、貴志弥次郎(陸軍中将)、頭山満、松岡洋右などがいる。祝電は床次竹二郎(逓信大臣)、皇道会[2]、明倫会[2]世界紅卍字会などから寄せられ、その数は1500通にも上った。[1]

統管に出口王仁三郎が、副統管に内田良平出口宇知麿が就任した。

王仁三郎が昭和神聖会の設立を決めた理由は簡単に言うと次のようになる。──社会は今「非常時日本」[3]と騒いでいる。〈ウラルの嵐(注・ソ連の脅威)はいつ日本の本土に向つて吹き付けて来るか知れないまでの危局に直面し、また一方太平洋の荒浪(注・米国の脅威)はこの大和島根を呑まむとして居る非常時〉である。自分は昭和9年1月から東京に上り、要職の人々と話をしてみたが、〈大抵の人はこの大難局を目前に見ながら、総てが自己主義であり、事なかれ主義〉であって行動を起こそうとしない。〈これではいけないと私は深く感じ、身命を賭しても我が皇国の非常時を打開し、天津日の大神の御神勅通りに日本の光を世界各国に輝かさねばならないと固く決心した〉[4]

設立当初の会則によると、「統管」の上位に「総裁」「副総裁」という役職があった。だが人事は未定だったようである。また、機関として「総裁府」「統管府」を置くことになっていた。しかし10月23日に会則が改正されて「総裁」は廃止となった。「総裁府」「統管府」も廃止され、新たに「統管部」が設置された。[5]

会則等

声明、主義、綱領、宣言、会則 →「昭和神聖会会則等#

会則は(「大本年表」によると)次の2回改正されている。

  • 昭和9年(1934年)10月23日 →「昭和神聖会会則#
  • 昭和10年(1935年)7月26日

活動

設立当初から取り掛かったのは「皇道経済」論の宣布である。昭和9年7月22日の発会と同時にパンフレット『祭政一致の大道』『皇道経済我観』が発刊された(どちらも7月25日付)。

直後の7月28日には「華府海軍軍縮条約廃止運動[6]を決議。全国的に運動が展開されて行く。8月8日にはパンフレット『華府条約を即時廃棄せよ』発刊。数十万部を軍部や外務省、政府要路に配布する。

11月30日に東京・上野で「皇道宣揚展覧会」が開催される(12月17日までの20日間)。以降、全国各地で皇道宣揚展が開かれて行く。

翌10年2月27日には天皇機関説排撃の声明書を発表。全国的に「天皇機関説排撃運動」が展開されて行く。3月には林逸郎著のパンフレット『天皇機関説撃滅』を発行して全国に配布。機関説反対の大講演会が全国的に開催される。7月22日の一周年記念大会では機関説撃滅に関する決議がなされ、決議文が関係大臣に手交された。

賛同者・賛同団体

皇道会
似たような名称の団体は多数あるが、この皇道会は昭和8年4月に東京で在郷軍人を中心に結成された団体である。総裁・等々力森蔵(陸軍中将)、副総裁・山下巍八郎(海軍中将)。昭和9年7月22日の昭和神聖会発会式では等々力中将が天皇陛下万歳三唱を発唱した。〔『国家主義運動の理論と現況』昭和9年、122~125頁、NDLDL蔵書 PID:1457003/1/71〕〔総本部日記 昭和9年#」〕
明倫会
皇道会のように在郷軍人を含むが、皇道会と比較して高級将官が中心なのが明倫会の特徴。昭和7年5月東京で設立。総裁・田中国重(陸軍大将)。〔『国家主義運動の理論と現況』昭和9年、118~121頁、NDLDL蔵書 PID:1457003/1/69

略史

〔この年表は「大本年表」をもとに作成した(注記ある場合を除く)〕

昭和9年(1934年)

  • 7月6日:王仁三郎は関東別院にて昭和神聖会創立の決意を内示し、主義・綱領・会則等の起草に着手。東京・銀座の交詢社ビル5階に昭和神聖会創立事務所を設置。
  • 7月8日:東京・築地の料亭「常盤」で昭和神聖会創立委員会を開催。
  • 7月22日:東京・九段の軍人会館で昭和神聖会発会式を挙行。(→「数運」参照)
  • 7月28日:昭和神聖会緊急委員会で華府海軍軍縮条約廃止運動を決議。
  • 8月8日:皇道パンフレット『華府条約を即時廃棄せよ』発行。
  • 8月21日:聖師生誕祭(数え64歳)。王仁三郎は昭和神聖会に関して訓示・講演。
  • 9月18日:東京で「国防時局大講演会」開催。4千人が参集。
  • 10月1日:機関誌『神聖』創刊。(『神聖』誌の記事は論説が中心であり、昭和神聖会の活動状況は『人類愛善新聞』や『真如の光』誌で詳しく報告されている)
  • 10月23日:統管の所在所を「統管部」と称する。
  • 10月27日:昭和神聖会本部事務所を交詢社から四谷区愛住町へ移す(→「四谷」参照)。
  • 11月29日:創立一周年までに会員100万人、賛同者1千万人獲得運動を起こす。
  • 同日:日韓合邦記念塔除幕式、神聖会員が奉仕。
  • 11月30日:東京・上野で「皇道宣揚展覧会」開催。12月17日まで。

昭和10年(1935年)

  • 1月3日:「本会は政治結社、宗教運動に非ず、国民精神運動」と全国へ通達。
  • 2月7日:瑞泉郷神聖神社鎮座祭。また、天恩郷透明殿が完成し、統管部となる。(神聖神社は〈神聖会の霊界の中枢〉[7]である)
  • 2月27日:天皇機関説排撃の声明書を発表。
  • 3月8、9、11日:東京で天皇機関説撲滅演説会を開催。4千人が参集。
  • 3月24日:林逸郎著『天皇機関説撃滅』発行。
  • 6月1日:映画部を新設。東京・世田谷で映画部玉川研究所開所式及び鎮座祭を執行。映画『皇軍と少女』制作に着手(7月27日、試写会)。
  • 7月22日:結成一周年記念。地方本部25、支部413、賛同者800万人突破。東京九段の軍人会館で創立一周年記念時局講演会を開催。機関説撃滅に関する決議をなす。
  • 7月26日:統管部を天恩郷及び横浜に、総本部は四谷愛住町76番地に置く。従来の総本部事務所は解消する。
  • 9月5日:映画神劇部を設置。
  • 12月8日:第二次大本事件勃発。

昭和11年(1936年)

  • 3月13日:昭和神聖会を含む大本八団体に当局から解散命令が出る。

主な参考文献

関連項目

脚注

  1. 1.0 1.1 大本七十年史 下巻』「声明・主義・綱領#
  2. 2.0 2.1 #賛同者・賛同団体参照
  3. 昭和恐慌(昭和5年)、農業恐慌(同5~6年)、満州事変(同6年)などの社会不安を背景に7年頃から「非常時日本」という言葉が叫ばれるようになった。8年には荒木貞夫陸軍大臣が演説するプロパガンダ映画『非常時日本』が陸軍省によって作られた。
  4. 昭和9年(1934年)9月13日、昭和神聖会南桑支部発会式における出口王仁三郎の講演。『惟神の道』「神聖運動について#」から引用。
  5. 昭和神聖会以前に計画された「大日本協導団」構想では一条実孝(いちじょう さねたか、1880~1959年)公爵が総裁に就任予定だったため、おそらく昭和神聖会でも一条公爵か、他の有力華族あるいは皇族に総裁となってもらいたいと考えていたのだろうと推測される。『大本七十年史 下巻』「創立にいたるまで#」参照
  6. 大正11年(1922年)2月に締結された華府(ワシントン)海軍軍縮条約は、米英日の主力艦・航空母艦の保有比率が5対5対3に制限され不平等であるという不満や、米国の対日侵略意図が秘められた条約だという批判があり、昭和8年(1933年)3月の国際連盟脱退等の政治状況の流れの中で、条約からの脱退を叫ぶ声が国内から高まった。そこで大本が華府海軍軍縮条約廃止運動に取り組むことになる。
  7. 真如の光』昭和10年(1935年)2月25日号、31~32頁の記事「神聖神社の鎮祭#」に記された王仁三郎の挨拶。