「玉川研究所」の版間の差分
ページの作成:「'''玉川研究所'''(たまがわけんきゅうじょ)は、昭和神聖会映画部の施設。東京市世田谷区の玉川<ref>明治22年(1889年)に東京府荏原郡玉川村が発足。昭和7年(1932年)10月1日に荏原郡全域が東京市に編入され、世田谷区が設置。旧玉川村の地域の町名には頭に「玉川」が付けられた。{{wp|玉川村_(東京府)}}</ref>にあった。昭和10年6月の開設された…」 |
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しかし試写だけで公開はされなかった。理由は技術的に未熟で公開できるようなものではなかったからである。[[第二次大本事件]]の裁判で、裁判長の質問に対して王仁三郎は〈迚も下手な映画〉だったと答えている。また〈玉川へ行きますと、面白うなかつたから、私が止めてしまへと止めさしてしまつたのです〉と答えており、王仁三郎の指示で映画部は廃止となった<ref>「{{obc|B195503c220210|地裁公判速記録(10)}}」</ref>。玉川研究所は8月中に閉鎖された<ref name="B195402c5423">『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c5423|文書宣伝}}」</ref>。 | しかし試写だけで公開はされなかった。理由は技術的に未熟で公開できるようなものではなかったからである。[[第二次大本事件]]の裁判で、裁判長の質問に対して王仁三郎は〈迚も下手な映画〉だったと答えている。また〈玉川へ行きますと、面白うなかつたから、私が止めてしまへと止めさしてしまつたのです〉と答えており、王仁三郎の指示で映画部は廃止となった<ref>「{{obc|B195503c220210|地裁公判速記録(10)}}」</ref>。玉川研究所は8月中に閉鎖された<ref name="B195402c5423">『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c5423|文書宣伝}}」</ref>。 | ||
この映画は8月10日(旧7月12日)の[[聖師生誕祭]]までに公開するという予定で急ピッチで作られた。そのため7月27日に試写することが出来た。しかし演出その他の点においてスタッフが未経験であるばかりか、中心となる[[原真平]]の撮影技術も未熟だったようで、欠陥だらけの作品となってしまった。また玉川研究所の幹部役員の間で原真平の技術や指導力に対する不満が噴出し、資金調達も順調に行かないなど、複数の理由によって玉川研究所の事業継続が困難となった。そのため昭和神聖会首脳部は玉川研究所の解散を決め、8月上旬に関係者を引責辞任させ、8月下旬には原真平との関係も一切絶って、玉川研究所は名実ともに閉鎖となった。 | この映画は8月10日(旧7月12日)の[[聖師生誕祭]]までに公開するという予定で急ピッチで作られた。そのため7月27日に試写することが出来た。しかし演出その他の点においてスタッフが未経験であるばかりか、中心となる[[原真平]]の撮影技術も未熟だったようで、欠陥だらけの作品となってしまった。また玉川研究所の幹部役員の間で原真平の技術や指導力に対する不満が噴出し、資金調達も順調に行かないなど、複数の理由によって玉川研究所の事業継続が困難となった。そのため昭和神聖会首脳部は玉川研究所の解散を決め、8月上旬に関係者を引責辞任させ、8月下旬には原真平との関係も一切絶って、玉川研究所は名実ともに閉鎖となった。<ref>『[[戦前における右翼団体の状況]] 下巻 その一』101~106頁</ref> | ||
9月5日には玉川研究所に奉斎されてあった神霊が総本部へ遷座された。<ref name="B195502c22052" /> | 9月5日には玉川研究所に奉斎されてあった神霊が総本部へ遷座された。<ref name="B195502c22052" /> | ||