「久兵衛池」の版間の差分
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当時喜三郎は、上田家の南隣の[[斎藤源治]]という大地主の家に、15歳の冬から丁稚奉公していた。喜三郎は斎藤家に村の大地主や議員、反対者が鳩首して吉松を攻撃する協議をしているのを隣室で聞いて憤った。小作地を取り上げたり、借金を取り立てたり、喜三郎をクビにしたりして吉松を困らせてやろうというのである。主人の源治がやって来て、喜三郎の方から吉松を説得してくれと頼む。喜三郎は断然反対の態度を取り、実家に帰った。すると父母が声を挙げて泣いている。村人たちがすでに「田を返せ、金を返せ」と迫ったのだった。喜三郎は「神の佑助を仰いで正邪を明らかにします」と父母を慰め、亀岡の伯母の家に向かった。事情を聞いた伯父や伯母も激昂し、万一の時には引き受けると、声援を送った。喜三郎は百万の援兵を得た気持ちで帰宅した。 | 当時喜三郎は、上田家の南隣の[[斎藤源治]]という大地主の家に、15歳の冬から丁稚奉公していた。喜三郎は斎藤家に村の大地主や議員、反対者が鳩首して吉松を攻撃する協議をしているのを隣室で聞いて憤った。小作地を取り上げたり、借金を取り立てたり、喜三郎をクビにしたりして吉松を困らせてやろうというのである。主人の源治がやって来て、喜三郎の方から吉松を説得してくれと頼む。喜三郎は断然反対の態度を取り、実家に帰った。すると父母が声を挙げて泣いている。村人たちがすでに「田を返せ、金を返せ」と迫ったのだった。喜三郎は「神の佑助を仰いで正邪を明らかにします」と父母を慰め、亀岡の伯母の家に向かった。事情を聞いた伯父や伯母も激昂し、万一の時には引き受けると、声援を送った。喜三郎は百万の援兵を得た気持ちで帰宅した。 | ||
翌日、久兵衛池の件で村中の総集会が開かれ、喜三郎は父の代理として出席すると、120余戸の戸主が残らず集まっていた。敵ばかりの中<ref>いじめの中心は富豪や議員など村の支配層であって、小作人などは吉松に同情を寄せていたが、支配層には逆らえなかった。</ref>、喜三郎は一言も淀みなく正義を以て立て通したので、彼らもついに適し難しを知り、上田家に年々報酬を出すので池を貸してくれないか、ということになり、喜三郎は毎年玄米1斗5升(22.5kg)ずつ<ref>1軒ごとに1斗5升だと思われる。</ref>で貸すことにし、契約書を取って一件落着となった。 | 翌日、久兵衛池の件で村中の総集会が開かれ、喜三郎は父の代理として出席すると、120余戸の戸主が残らず集まっていた。敵ばかりの中<ref>いじめの中心は富豪や議員など村の支配層であって、小作人などは吉松に同情を寄せていたが、支配層には逆らえなかった。</ref>、喜三郎は一言も淀みなく正義を以て立て通したので、彼らもついに適し難しを知り、上田家に年々報酬を出すので池を貸してくれないか、ということになり、喜三郎は毎年玄米1斗5升(22.5kg)ずつ<ref>1軒ごとに1斗5升だと思われる。</ref> <ref>後に玄米の現物納付から現金納付に変わったようである。「[[大本年表]]」の昭和9年(1934年)1月1日の項に〈穴太の久兵衛池利水年間謝礼金(三円三十銭)を大本に納入されることになる。〉という記述がある。</ref>で貸すことにし、契約書を取って一件落着となった。 | ||
王仁三郎は〈余はここにおいて、神力の高きを覚ると共に、ますます下等貧賤の人民の境遇の惨澹たる生活を知り、ますます救世的の大決心を定めたのである。本作は、余が従道の志をしてますます強剛ならしめたのであるから、記しておく次第である〉と述べている。 | 王仁三郎は〈余はここにおいて、神力の高きを覚ると共に、ますます下等貧賤の人民の境遇の惨澹たる生活を知り、ますます救世的の大決心を定めたのである。本作は、余が従道の志をしてますます強剛ならしめたのであるから、記しておく次第である〉と述べている。 |