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[[索倫山]]は[[興安嶺]]山脈の支脈であり、百里(400km)四方の地域を索倫と称している。ここは外蒙との連鎖点であった。盧占魁が大救世主を奉戴して蒙古救援軍を起こすというので、人々は大いに歓喜し、素晴らしい人気であった。蒙古の王や喇嘛、馬隊等が次々と噂を聞いて集まり、部下を率いて参加するので、瞬くうちに内外蒙古救援軍は編成された。盧占魁が軍に宛てた手紙によると、この時集まっていた兵員は5~600人であり、他に1千余人が数日以内に集まる予定だった。〔{{rm|nm|21|索倫本営}}〕
[[索倫山]]は[[興安嶺]]山脈の支脈であり、百里(400km)四方の地域を索倫と称している。ここは外蒙との連鎖点であった。盧占魁が大救世主を奉戴して蒙古救援軍を起こすというので、人々は大いに歓喜し、素晴らしい人気であった。蒙古の王や喇嘛、馬隊等が次々と噂を聞いて集まり、部下を率いて参加するので、瞬くうちに内外蒙古救援軍は編成された。盧占魁が軍に宛てた手紙によると、この時集まっていた兵員は5~600人であり、他に1千余人が数日以内に集まる予定だった。〔{{rm|nm|21|索倫本営}}〕
=== 索倫にて ===
[[ファイル:熱察綏の位置1.jpg|thumb|150px|熱・察・綏の位置]]
索倫山の本営には次々と兵が集まって来た。
5月1日、盧占魁は王仁三郎に「庫倫《クーロン》(現モンゴルの首都ウランバートル)に進出するためには、興安嶺に赤軍が7千人駐屯しているため、貴下の命令通りに直進したら一戦を交えて兵と弾薬を消費してしまう。そこで熱・察・綏<ref>熱河省《ねっかしょう》、察哈爾省《チャハルしょう》、綏遠省《すいえんしょう》</ref>の3地域に進出し、本年はそこで冬籠もりをして兵備を完全に整え、来春、庫倫に進むことにしましょう。庫倫には1万の赤軍が駐屯しているが、来春には10万の兵がここに集まる予定です」ということを進言した。〔{{rm|nm|22|木局収ケ原}}〕
5月14日、王仁三郎は[[下木局子]]から[[上木局子]]へ移動する。
5月21日、盧占魁が王仁三郎に「だんだん兵が集まって来ているし、救世主の噂がますます盛んになっているので、彼らを驚かすために風雨を呼び起こしてもらいたい」と、人々に奇蹟を見せてくれるよう頼んだ。しかし王仁三郎は「神界から必要と認められる場合以外には出来ない。奇術のように濫用することは[[兇党界]]に属することなので困る」と断った。自分の代わりに松村真澄に奇蹟を起こさせることにした。23日、松村が黙祷すると、晴天の空が瞬く間に雨雲に覆われ、暴風が襲来した。王仁三郎が天に向かって「ウー」と大喝すると、5分後に雨は止み、空は清朗に澄み切った。〔{{rm|nm|25|風雨叱咤}}〕
=== 日本での動き ===
綾部で軍資金の調達に苦労していた[[加藤明子]]は、王仁三郎が発ってから3週間ほど経った頃(3月初旬か?)王仁三郎からの密書を受け取った。そこには旧3月3日(新4月6日)までに4~5人選んで同道して王仁三郎の滞在地まで来いとの命令が書かれていた。しかしその後、「庫倫到着後に来るように」との連絡が入った。
4月18日、奉天の[[矢野祐太郎]]からの打電により[[国分義一]]、[[藤田武寿]]、[[加藤明子]]の3人は奉天に向かって出発し、20日奉天に到着した。王仁三郎がいる奥地へ行こうとしたが困難であるため、5月8日帰国の途に就いた。〔{{rm|nm|27|奉天の渦}}〕
=== 索倫出発 ===
6月3日午前3時、一行は索倫の上木局子を出発し、興安嶺の聖地を指して行軍を開始した。この日の夜、大英子児《タアインヅル》の部隊60余騎が脱退し、翌朝出発する時の人数は騎兵500、馬がなく牛車に乗る兵300余の、計800余人であった。〔{{rm|nm|28|行軍開始}}〕
6月5日、興安嶺の聖地を目指して西北に向かって行軍していたが、針路が突然なぜか南方へ変わった。理由は分からないが先鋒隊はすでに遠く進んでいるため、連絡はできず、後をついて行くしかない。
巨大な火山のクレーターがあり、王仁三郎は「霊界物語[[第1巻]]にある[[天保山]]の一部だ」と教えた。〔{{rm|nm|29|端午の日}}〕
6月11日、昼夜兼行の強行軍のため食料の補充ができず、落伍者が増えて行った。
6月13日、方向は依然として東南に向かい奉天へ近づいて行く。松村真澄が盧占魁にそれを糺すと、盧は「民家の多い所へ行かないと兵糧と馬糧が不足してどうする事もできない」と力なげに答えた。〔{{rm|nm|31|強行軍}}〕
=== パインタラの難 ===
6月20日、[[白音太拉]]《パインタラ》まで7~80支里(中国の1里を500mとして計算すると35
~40km)まで迫った。「武装解除してからでなくては白音太拉に来てはならない」という手紙が官兵側から届いた。盧軍の武器は全て官兵に引き渡し、白音太拉へ入った。〔{{rm|nm|33|武装解除}}〕
21日の朝、王仁三郎は白音太拉に入った。盧占魁は午後4時頃到着した。王仁三郎ら日本人は鴻賓旅館《こうひん りょかん》というホテルに泊まることになった。夜1時(22日午前1時)頃、兵士が室内に乱入し、[[萩原敏明]]、[[植芝盛平]]、[[井上兼吉]]、[[坂本広一]]、[[松村真澄]]、[[王仁三郎]]の順で6人を捕縛した。一行は宣伝歌を歌いながら白音太拉の町中を引き回された。盧占魁の部下たちはすでに銃殺され死体が沢山道端に転がっていた。
6人は一列に並ばされ、今や機関銃の弾が飛んでくると思う矢先、射手は銃の反動を受けて後ろに倒れたため数分を要した。王仁三郎は〈よしや身は蒙古のあら野に朽つるとも日本男子の品は落さじ〉〈いざさらば天津御国にかけ上り日の本のみか世界を守らむ〉〈日の本を遠く離れて我は今蒙古の空に神となりなむ〉等と辞世を7回詠み、大日本帝国万歳、大本万歳を三唱した。そうこうするうちに銃殺は中止となり、一行は通遼公署<ref>通遼は白音太拉の漢名</ref>附属の監獄へ連行された。〔{{rm|nm|34|竜口の難}}〕


== 略年表 ==
== 略年表 ==