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[[大石凝真素美]]は明治15年頃(前述のように時期には異説あり)水茎の岡から琵琶湖に浮かぶ水茎文字を実見した。
[[大石凝真素美]]は明治15年頃(前述のように時期には異説あり)水茎の岡から琵琶湖に浮かぶ水茎文字を実見した。


明治31年(1898年)に[[出口王仁三郎]]は大石凝に伴われ、水茎の岡から水茎文字を実見している。 →「水茎の岡」「[[大石凝真素美#出口王仁三郎との関わり]]」
明治31年(1898年)に[[出口王仁三郎]]は大石凝に伴われ、水茎の岡から水茎文字を実見している。 →「[[水茎の岡]]」「[[大石凝真素美#出口王仁三郎との関わり]]」


大正4年(1915年)には、王仁三郎は信者の[[梅田信之]]らと共に再度水茎の岡に登り、水茎文字を実見した。 →「[[水茎の岡]]」
大正4年(1915年)には、王仁三郎は信者の[[梅田信之]]らと共に再度水茎の岡に登り、水茎文字を実見した。 →「[[水茎の岡]]」
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その後王仁三郎は、綾部の[[金竜海]]で水茎文字を実見するようになった。<ref>出口王仁三郎「{{obc|Z9051|水茎文字の研究}}」(『敷嶋新報』大正4年6月15日)</ref>
その後王仁三郎は、綾部の[[金竜海]]で水茎文字を実見するようになった。<ref>出口王仁三郎「{{obc|Z9051|水茎文字の研究}}」(『敷嶋新報』大正4年6月15日)</ref>


[[水谷清]]は水茎の岡へ〈三回ほど実見に出掛けたが、不幸にして風の日のみで充分の結果を見なかつた。同門の中には水茎文字を写真にして持つてゐる者もあるが、充分明瞭には尚ほ見えないやうである〉<ref>水谷清『[[古事記大講]] 第14巻』191頁、{{ndldl|1241365/1/101}}</ref>と語っている。
[[水谷清]]は[[水茎の岡]]へ〈三回ほど実見に出掛けたが、不幸にして風の日のみで充分の結果を見なかつた。同門の中には水茎文字を写真にして持つてゐる者もあるが、充分明瞭には尚ほ見えないやうである〉<ref>水谷清『[[古事記大講]] 第14巻』191頁、{{ndldl|1241365/1/101}}</ref>と語っている。


出口王仁三郎は昭和3年(1928年)5月8日、高知市内を流れる鏡川の川面に水茎文字が浮かんだということを日記に記している。〈朝起きて窓開け見れば雨しげく 鏡の川に水茎文字浮く〉<ref>『[[ふたな日記]]』26頁、{{ndldl|1086461/1/17}}</ref>。これは雨が降っていたのでそれによって波紋が描かれ、それを水茎文字に例えただけのようである。
出口王仁三郎は昭和3年(1928年)5月8日、高知市内を流れる鏡川の川面に水茎文字が浮かんだということを日記に記している。〈朝起きて窓開け見れば雨しげく 鏡の川に水茎文字浮く〉<ref>『[[ふたな日記]]』26頁、{{ndldl|1086461/1/17}}</ref>。これは雨が降っていたのでそれによって波紋が描かれ、それを水茎文字に例えただけのようである。