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[[出口王仁三郎]]は明治31年(1898年)[[大石凝真素美]]に伴われて琵琶湖へ行き水茎の岡に登り、湖面に水茎文字が浮かぶのを実見した。 →「[[大石凝真素美#出口王仁三郎との関わり]]」
[[出口王仁三郎]]は明治31年(1898年)[[大石凝真素美]]に伴われて琵琶湖へ行き水茎の岡に登り、湖面に水茎文字が浮かぶのを実見した。 →「[[大石凝真素美#出口王仁三郎との関わり]]」


大正4年(1915年)5月16日、出口王仁三郎は[[梅田信之]](大本教教統)を伴い、大石凝(大正2年に帰幽)の高弟である[[朝倉尚絅]](あさくら しょうけい)らと再度水茎の岡を訪れ、「ア」「オ」「エ」「イ」の水茎文字を実見した。下山後、水茎の岡を買い取ろうとして地元の人に相談するが、この山は村有の山で地元民の生計を支えているので買い取りは不可能だと言われる。帰綾後、[[金竜海]]にも水茎文字が浮かぶのが見えるようになった。<ref>出口王仁三郎「{{obc|Z9051|水茎文字の研究}}」(『敷嶋新報』大正4年6月15日)</ref>
大正4年(1915年)5月16日、出口王仁三郎は[[梅田信之]](大本教教統)を伴い、大石凝(大正2年に帰幽)の弟子である[[朝倉尚絅]](あさくら しょうけい)らと再度水茎の岡を訪れ、「ア」「オ」「エ」「イ」の水茎文字を実見した。下山後、水茎の岡を買い取ろうとして地元の人に相談するが、この山は村有の山で地元民の生計を支えているので買い取りは不可能だと言われる。帰綾後、[[金竜海]]にも水茎文字が浮かぶのが見えるようになった。<ref>出口王仁三郎「{{obc|Z9051|水茎文字の研究}}」(『敷嶋新報』大正4年6月15日)</ref>


[[水茎文字]]はいつでも誰でも見えるものではない。また、見なくてはいけないようなものでもない。王仁三郎は次のように教えている。
[[水茎文字]]はいつでも誰でも見えるものではない。また、見なくてはいけないようなものでもない。王仁三郎は次のように教えている。