「宇佐美景堂」の版間の差分
編集の要約なし |
|||
8行目: | 8行目: | ||
神宮皇学館で学び、伊勢の皇大神宮に奉職する。 | 神宮皇学館で学び、伊勢の皇大神宮に奉職する。 | ||
大正3年(1914年)大本に共鳴し入信。やがて大本に疑義を感じて脱退し帰郷する。(本人の著書には「大本にいたのは大正4年で脱退したのは大正5年」だと記されている。また、「大正10年の第一次大本事件の時には新聞編集係として入社([[人類愛善新聞社]]か?)する予定だったが1日違いで検挙を免れ、昭和10年の第二次大本事件の時にも[[言霊学]]の講義を担当する前提で入教する予定だったがこれも直前に事件が起きたので検挙を免れた」と回顧している。<ref>宇佐美景堂『霊響随想録 第1集』16頁〔{{ndldl|8797777/1/17}}〕</ref> <ref>『霊響随想録 第1集』21頁〔{{ndldl|8797777/1/20}}〕</ref>) | 大正3年(1914年)大本に共鳴し入信。やがて大本に疑義を感じて脱退し帰郷する。(本人の著書には「大本にいたのは大正4年で脱退したのは大正5年」だと記されている。また、「大正10年の第一次大本事件の時には新聞編集係として入社([[人類愛善新聞社]]か?)する予定だったが1日違いで検挙を免れ、昭和10年の第二次大本事件の時にも[[言霊学]]の講義を担当する前提で入教する予定だったがこれも直前に事件が起きたので検挙を免れた」と回顧している。<ref>宇佐美景堂『霊響随想録 第1集』16頁〔{{ndldl|8797777/1/17}}〕</ref> <ref>『霊響随想録 第1集』21頁〔{{ndldl|8797777/1/20}}〕</ref> <ref>宇佐美景堂『霊界への架け橋 第1部 (人間は死後にも生存)』71頁、{{ndldl|2939882/1/37}}:〈昭和四年の初夏のころ〉</ref>) | ||
大本離教後は巡査となり夜は日本大学で学ぶ。後に吉野の丹生川上(にうかわかみ)神社に奉職。霊視能力を体得。 | 大本離教後は巡査となり夜は日本大学で学ぶ。後に吉野の丹生川上(にうかわかみ)神社に奉職。霊視能力を体得。 |
2025年3月17日 (月) 11:10時点における版

宇佐美景堂(うさみ けいどう、1895~1986年)は、神道家・言霊学者・霊学者。一時期、大本信者だった。
略年表
明治28年(1895年)8月21日、三重県三重郡朝上村(あかかみむら)田光(たびか)(現・菰野町田光)で生まれる。家系は「天日別命ノ裔」。本名は「宇佐美武吉」。「景堂」は号。「伊勢田光彦」という筆名もある。
神宮皇学館で学び、伊勢の皇大神宮に奉職する。
大正3年(1914年)大本に共鳴し入信。やがて大本に疑義を感じて脱退し帰郷する。(本人の著書には「大本にいたのは大正4年で脱退したのは大正5年」だと記されている。また、「大正10年の第一次大本事件の時には新聞編集係として入社(人類愛善新聞社か?)する予定だったが1日違いで検挙を免れ、昭和10年の第二次大本事件の時にも言霊学の講義を担当する前提で入教する予定だったがこれも直前に事件が起きたので検挙を免れた」と回顧している。[1] [2] [3])
大本離教後は巡査となり夜は日本大学で学ぶ。後に吉野の丹生川上(にうかわかみ)神社に奉職。霊視能力を体得。
その後、名古屋市に移住して『新愛知新聞』(現・中日新聞)に勤務。そのかたわら水野満年と共に大石凝真素美の言霊学を世に唱導・顕彰する。
昭和2年(1927年)以降、心霊科学の浅野和三郎や亀井三郎と交流する。
昭和61年(1986年)9月16日、名古屋の自宅で帰幽。享年満91歳(数え92歳)。
【参考文献】
- 吾郷清彦『言霊の道 先覚者略伝集』平成3年(1991年)、275頁「宇佐美景堂」の項
主な著書
宇佐美景堂は著書がたくさんあり、主要なものだけでも50冊ほどある[4]。
王仁三郎と特に関係深い著述は『日本言霊学概論』である。大石凝真素美の言霊学が概説されている。