「大日本武道宣揚会」の版間の差分
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現在本会においては会長植芝守高氏の大神より神授せられたる相生流合気武術を主として修練し、軍部方面にも大いに歓迎せられ、非常時日本に大なる貢献を致しつつあるが、更に武道の各方面に及ぼす事となっている。(略)|『[[皇道の栞]]』第4版、昭和9年6月、481~482頁、{{ndldl|1111754/1/268}} }} | 現在本会においては会長植芝守高氏の大神より神授せられたる相生流合気武術を主として修練し、軍部方面にも大いに歓迎せられ、非常時日本に大なる貢献を致しつつあるが、更に武道の各方面に及ぼす事となっている。(略)|『[[皇道の栞]]』第4版、昭和9年6月、481~482頁、{{ndldl|1111754/1/268}} }} | ||
植芝は大正9年(1920年)大本に入信し綾部に移住して武術の道場(植芝塾)を開いた。昭和2年(1927年)綾部から東京へ一家をあげて移住<ref>植芝吉祥丸『[[ | 植芝は大正9年(1920年)大本に入信し綾部に移住して武術の道場(植芝塾)を開いた。昭和2年(1927年)綾部から東京へ一家をあげて移住<ref>植芝吉祥丸『[[植芝盛平伝]]』192頁</ref>。同6年4月、東京の新宿・若松町にはじめて本格的な合気道場(皇武館、現・合気会)を開いた<ref>植芝吉祥丸『[[植芝盛平伝]]』208頁</ref>。東京移住後は大本との関係が薄れていた<ref>植芝吉祥丸『[[植芝盛平伝]]』217頁</ref>が、王仁三郎の要請によって同7年8月、大日本武道宣揚会会長に就任。亀岡でも合気武術を教えることになった。 | ||
大日本武道宣揚会では道士、宣士、助士という称号を設け<ref>会則第7条</ref>、武術の教授を行わせた。<ref>政府の外郭団体である大日本武徳会では範士、教士、錬士という称号を用いている。{{wp|大日本武徳会}}</ref> | 大日本武道宣揚会では道士、宣士、助士という称号を設け<ref>会則第7条</ref>、武術の教授を行わせた。<ref>政府の外郭団体である大日本武徳会では範士、教士、錬士という称号を用いている。{{wp|大日本武徳会}}</ref> | ||
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昭和8年(1933年)3月30日、愛善郷の地鎮祭が城址で執行された際、王仁三郎は竹田別院(旧石原本家)を検分し、「別院の建物あまり多ければ武術の道場に使用せんとす」と歌を詠んだ。天恩郷に新道場を建築する計画が進んでいたが、竹田に適した建物があったため、ここに大日本武道宣揚会の総本部と道場を移転することになった。<ref>『[[竹田別院五十年誌]]』138頁</ref> | 昭和8年(1933年)3月30日、愛善郷の地鎮祭が城址で執行された際、王仁三郎は竹田別院(旧石原本家)を検分し、「別院の建物あまり多ければ武術の道場に使用せんとす」と歌を詠んだ。天恩郷に新道場を建築する計画が進んでいたが、竹田に適した建物があったため、ここに大日本武道宣揚会の総本部と道場を移転することになった。<ref>『[[竹田別院五十年誌]]』138頁</ref> | ||
同年5月1日に竹田に移転した後も大日本武道宣揚会の活動は盛況で、常時50~60人がここで寝泊まりして「武農一如」の道場生活を送った<ref> | 同年5月1日に竹田に移転した後も大日本武道宣揚会の活動は盛況で、常時50~60人がここで寝泊まりして「武農一如」の道場生活を送った<ref>植芝吉祥丸『[[植芝盛平伝]]』221頁</ref>。移転後半年の間に本部と支部で87回もの講習会を行い、受講者はのべ2278人にのぼり、同年12月末には支部129ヶ所、会員2488人へと拡大した<ref>『[[竹田別院五十年誌]]』141頁</ref>。 | ||
また要請があれば、各地の憲兵隊・海軍大学・警察・在郷軍人会・中学校などでも講習会を開いて指導にあたった<ref name="B195402c5431">『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c5431|諸団体の活動}}」</ref>。 | また要請があれば、各地の憲兵隊・海軍大学・警察・在郷軍人会・中学校などでも講習会を開いて指導にあたった<ref name="B195402c5431">『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c5431|諸団体の活動}}」</ref>。 | ||
急速に発展する一方で、内部的に深刻な問題が発生していた。大日本武道宣揚会は[[昭和青年会]]武術部を端緒としており、大本の外郭団体であって、単なる武術の道場ではない。趣意書などから窺い知れるように、王仁三郎の皇道宣布活動の一翼を担っていた。植芝自身は大本信者だが、植芝の弟子たちは必ずしも信者ではなく、武術の鍛錬に重きを置く者が多かった。そのため、信仰重視の信者たちと、植芝の弟子たちの間に軋轢が生じたのである。植芝吉祥丸によると〈指導陣も大本とは全く無関係の内弟子たちによって占められ、実質的には開祖(編注・植芝盛平)個人の、つまり皇武館支部道場のごとき観を呈した〉<ref> | 急速に発展する一方で、内部的に深刻な問題が発生していた。大日本武道宣揚会は[[昭和青年会]]武術部を端緒としており、大本の外郭団体であって、単なる武術の道場ではない。趣意書などから窺い知れるように、王仁三郎の皇道宣布活動の一翼を担っていた。植芝自身は大本信者だが、植芝の弟子たちは必ずしも信者ではなく、武術の鍛錬に重きを置く者が多かった。そのため、信仰重視の信者たちと、植芝の弟子たちの間に軋轢が生じたのである。植芝吉祥丸によると〈指導陣も大本とは全く無関係の内弟子たちによって占められ、実質的には開祖(編注・植芝盛平)個人の、つまり皇武館支部道場のごとき観を呈した〉<ref>植芝吉祥丸『[[植芝盛平伝]]』217頁</ref>。〈会自体はそのような組織体(編注・大本の外郭団体)であったにもかかわらず、実際には、合気道の修行道場としての「竹田道場」の存在のほうがむしろ主となり、会は従のごとき印象をうけるようになっていった。いいかえれば「竹田道場」は、東の牛込若松町〝地獄道場〟(編注・新宿の皇武館)に呼応する西の〝地獄道場〟とでもいうべき、合気道隆盛の一大拠点のありさまになってゆく〉<ref>植芝吉祥丸『[[植芝盛平伝]]』219~220頁</ref>。 | ||
昭和8年12月から翌年3月にかけて、大日本武道宣揚会幹部と大本幹部が集まり、「武宣(大日本武道宣揚会)の今後の運動発展」について懇談会がもたれが、結局「従来のまま」ということで決着した<ref>『[[竹田別院五十年誌]]』142頁</ref>。 | 昭和8年12月から翌年3月にかけて、大日本武道宣揚会幹部と大本幹部が集まり、「武宣(大日本武道宣揚会)の今後の運動発展」について懇談会がもたれが、結局「従来のまま」ということで決着した<ref>『[[竹田別院五十年誌]]』142頁</ref>。 | ||