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* [[三浦関造]]・著『心霊の飛躍 超人の出現』(日東書院、1932年)p81「植芝守高氏武道と神ながら」〔[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1032525/47 国立国会図書館デジタルライブラリ]〕 | * [[三浦関造]]・著『心霊の飛躍 超人の出現』(日東書院、1932年)p81「植芝守高氏武道と神ながら」〔[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1032525/47 国立国会図書館デジタルライブラリ]〕 | ||
植芝盛平は「守高」という号を昭和16年(1941年)頃まで使用していた<ref>植芝吉祥丸『[[ | 植芝盛平は「守高」という号を昭和16年(1941年)頃まで使用していた<ref>植芝吉祥丸『[[合気道開祖 植芝盛平伝]]』224頁</ref>。 | ||
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2025年1月30日 (木) 17:53時点における版
守高(もりたか)は、植芝盛平の別名。号。
王仁三郎の蒙古入りに同行した植芝は、「王守高」という中国名を名乗った。[1]
入蒙記でも、植芝は「守高」という名で登場する。(初出:入蒙記第1章「水火訓」#:「身魂にみたし真澄別 名田彦守高両人を」) →詳細は「王守高」を見よ
また蒙古から帰った後も「植芝守高」という名を使っていた時期がある。「植芝守高」名義で武道解説書を書いたり、他人が書いた本に「植芝守高」という名で紹介されたこともある。
- 植芝守高・著『武道練習』(私家版)
- 三浦関造・著『心霊の飛躍 超人の出現』(日東書院、1932年)p81「植芝守高氏武道と神ながら」〔国立国会図書館デジタルライブラリ〕
植芝盛平は「守高」という号を昭和16年(1941年)頃まで使用していた[2]。
似た名前の人物
脚注
外部リンク
- 植芝盛平 - ウィキペディア