「出雲大神宮」の版間の差分

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
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(参考文献)
(元出雲)
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== 元出雲 ==
 
== 元出雲 ==
出雲大神宮は「元出雲」という俗称がある。その由来として公式サイトで次のように説明されている。〈『丹波国風土記』によれば、「奈良朝のはじめ元明天皇和銅年中、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す。すなわち今の出雲大社これなり。」と記します。よって当宮に古来より元出雲の信仰があります。〉<ref>「[http://www.izumo-d.org/gosaijin.html 御祭神]」(2024/7/20閲覧)</ref>。つまり当社から出雲に大国主命を遷して杵築大社(現・出雲大社)が創建されたということである。<ref>「丹波国風土記」という文献は存在しない。「丹波国風土記逸文」も存在しない。出雲大神宮の説明における「丹波国風土記」とは具体的に何の文献を指しているのかは不明である。風土記は和銅6年(713年)に元明天皇が各国に編纂を命じたもので、出雲・播磨・肥前・常陸・豊後の5ヶ国の風土記しか現存しない。他の国の風土記は「逸文」として断片的に伝えられている。「逸文」とは後世の文書に引用されている文章である。丹'''後'''国風土記逸文は存在するが、丹'''波'''国風土記逸文は発見されていない。実際には「丹波国風土記」と称する文献がいくつかあるが、地名しか書いてなかったり(多和文庫の丹波国風土記注進)、後世に作られた別書物だったり(池底叢書の丹波国風土記)する。</ref>
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出雲大神宮は「元出雲」という俗称がある。「元伊勢」や「元外宮」と呼ばれる神社は複数あるが、「元出雲」は当社だけである。
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「元出雲」の由来として公式サイトで次のように説明されている。〈『丹波国風土記』によれば、「奈良朝のはじめ元明天皇和銅年中、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す。すなわち今の出雲大社これなり。」と記します。よって当宮に古来より元出雲の信仰があります。〉<ref>「[http://www.izumo-d.org/gosaijin.html 御祭神]」(2024/7/20閲覧)</ref>。つまり当社から出雲に大国主命を遷して杵築大社(現・出雲大社)が創建されたということである。<ref>「丹波国風土記」という文献は存在しない。「丹波国風土記逸文」も存在しない。出雲大神宮の説明における「丹波国風土記」とは具体的に何の文献を指しているのかは不明である。風土記は和銅6年(713年)に元明天皇が各国に編纂を命じたもので、出雲・播磨・肥前・常陸・豊後の5ヶ国の風土記しか現存しない。他の国の風土記は「逸文」として断片的に伝えられている。「逸文」とは後世の文書に引用されている文章である。丹'''後'''国風土記逸文は存在するが、丹'''波'''国風土記逸文は発見されていない。実際には「丹波国風土記」と称する文献がいくつかあるが、地名しか書いてなかったり(多和文庫の丹波国風土記注進)、後世に作られた別書物だったり(池底叢書の丹波国風土記)する。</ref>
  
 
出雲大神宮が「元出雲」だと一般に知られるようになったのは戦後であり、戦前は「元出雲」だと記された資料はほとんどない。昭和15年(1940年)発行の『神社大観』に〈本社は俗に元出雲と称せられてゐる〉と記されているものの、何故「元出雲」なのかについては説明されていない。
 
出雲大神宮が「元出雲」だと一般に知られるようになったのは戦後であり、戦前は「元出雲」だと記された資料はほとんどない。昭和15年(1940年)発行の『神社大観』に〈本社は俗に元出雲と称せられてゐる〉と記されているものの、何故「元出雲」なのかについては説明されていない。

2024年7月21日 (日) 17:59時点における版

明治時代の出雲神社。
本殿と御神体山。2015年撮影。

出雲大神宮(いずもだいじんぐう)は、亀岡市にある神社。大国主命とその妻・三穂津姫を祀る。旧称「出雲神社」。当社から出雲大社へ神霊を遷したため「元出雲」とも称される。社殿背後の御神体山には国常立尊が鎮まる。

概要

  • 鎮座地:京都府亀岡市千歳町千歳出雲無番地
    • 自治体の変遷:明治22年(1889年)南桑田郡千歳村/昭和30年(1955年)亀岡市千歳町
  • 主祭神:大国主命、三穂津姫命(大国主命の妻神、高皇産霊神の姫神)。
    • 天津彦根命、天夷鳥命が祭神だという説もある[1]
    • 主祭神として素盞嗚尊や奇稲田姫を含めて三柱、または四柱とする時代もあったようである。『南桑田郡地理歴史』には〈大国主命、素盞嗚尊、奇稲田比売命を祭る〉、『近畿の名蹟 第8』には〈祭神は素盞男命、稲田姫命、大国主命、三穂津姫命の四座であるといふ〉と記されている。
  • この地に鎮座したのは神代であり、1万年以上前とも言われる[2]。初めて社殿を造営したのは和銅2年(709年)。
  • 丹波国一宮。旧・国幣中社。延喜式内社[3]
  • 戦後は神社本庁に所属していたが、昭和29年(1954年)に単立法人となる。[4]
  • 延喜式に記載された名称は「出雲神社」であり、昭和20年代まで「出雲神社」と名乗っていた。20年代末に「出雲大神宮」に改名した。[5] [6]
  • 国常立尊が鎮まる御神体山は「御影山(みかげやま)」と呼ばれる。また「御蔭山」「千年山(ちとせやま)」とも呼ばれる。
    • この地域が「千歳(ちとせ)」と呼ばれるのは、御神体山の「千年(ちとせ)」山に由来する。「千年」の由来は、昔、一人の老人がこの山に住んでいたが、老人とは思えない若々しい容姿だった。村人が老人に「この山に何年住んでいるのか」と尋ねると、老人は「千年になる」と答えたという伝承がある。[7]
    • 千年山は「御影(みかげ)」山とも呼ばれるが、それは和銅年間に出雲の神霊が「御影」をこの山に発現されたからだと伝えられている。[7] [8]

元出雲

出雲大神宮は「元出雲」という俗称がある。「元伊勢」や「元外宮」と呼ばれる神社は複数あるが、「元出雲」は当社だけである。

「元出雲」の由来として公式サイトで次のように説明されている。〈『丹波国風土記』によれば、「奈良朝のはじめ元明天皇和銅年中、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す。すなわち今の出雲大社これなり。」と記します。よって当宮に古来より元出雲の信仰があります。〉[9]。つまり当社から出雲に大国主命を遷して杵築大社(現・出雲大社)が創建されたということである。[10]

出雲大神宮が「元出雲」だと一般に知られるようになったのは戦後であり、戦前は「元出雲」だと記された資料はほとんどない。昭和15年(1940年)発行の『神社大観』に〈本社は俗に元出雲と称せられてゐる〉と記されているものの、何故「元出雲」なのかについては説明されていない。

戦前は、出雲大社から勧請されたと言われていた。

  • 卜部兼好の随筆『徒然草』(14世紀半ばに成立)第236段に「丹波に出雲といふ所あり。大社をうつしてめでたくつくれり」と記されている。
  • 〈出雲大社の分霊〉[11]
  • 〈出雲の杵築大社の神霊を勧請したもの〉[12]
  • 〈和銅二年に出雲杵築の大社を、勧請したもの〉[13]
  • 〈和銅二年杵築大社(出雲大社)を移し祭れるに起ると云ふ〉〈例祭十月二十一日、この日は本社の出雲より遷祀あり、始めて祭典を行ひたる嘉晨なりと云ふ〉[14]

王仁三郎は「元出雲」ということに関して言及していないようである。

国常立尊

御神体山には国常立尊が鎮座するということが一般に知られるようになったのは、戦後のことのようである。戦前の資料にそのことに触れているものは見つからない。

王仁三郎は御神体山に国常立尊が鎮座しているということを知っていたようである。大正15年(1926年)6月17日、王仁三郎が出雲神社に参拝した時の歌日記[15]に〈仰ぎ見るさへも畏き御影山《みかげやま》は国常立の神の隠れ処《が》〉と歌われている。

出雲大神宮のパンフレット[16]に、〈富士古文書(宮下文書)では、首座は国常立命の神霊をお祀りし、両側の二座に大国主命、三穂津姫命が鎮座しているという内容の記述もある〉と記されている。[17]

参考文献

  • 桂信次郎、田井与之助『南桑田郡地理歴史』明治29年(1896年)、半月堂、NDLDL蔵書
  • 『京都府写真帖』明治41年(1908年)、京都府、98頁、NDLDL蔵書
  • 鉄道院・編『神まうで』大正8年(1919年)、博文館、245頁、NDLDL蔵書
  • 辰馬六郎『近畿の名蹟 第8』昭和4年(1929年)、金剛社、82頁、NDLDL蔵書
  • 『大日本神社志 3』昭和8年(1933年)、大日本敬神会本部、274頁、NDLDL蔵書
  • 光永星郎・編『神社大観』昭和15年(1940年)1月、日本電報通信社、386頁、NDLDL蔵書
  • 高橋新吉『神社参拝』昭和17年(1942年)、明治美術研究所、153~156頁、NDLDL蔵書
  • 『神社名鑑』昭和38年(1963年)、神社本庁神社名鑑刊行会、524~525頁、NDLDL蔵書
  • 『全国神社名鑒 下巻』昭和52年(1977年)、全国神社名鑑刊行会史学センター、65頁、NDLDL蔵書
  • 麻井玖美、角田直美『丹波物語 ──民俗と歴史のドキュメント』昭和52年(1977年)、国書刊行会、NDLDL蔵書、著者が参拝した時の広瀬伯紀宮司の談話があり、「大国主を政略結婚で三穂津姫と結婚させて国譲りさせ、後から大国主だけを出雲に遷したので、ここを元出雲と言う」(18頁)とか「丹波国風土記には大国主を出雲に追放したと書かれている」(21頁)等と記されている。大和から来た朝廷系の神々に大国主が出雲へ追い払われたという史観のようである。
  • 永光尚『亀岡百景』昭和58年(1983年)、南郷書房出版部、77頁・81頁、NDLDL蔵書
  • 神の国』平成4年(1992年)1月号、28~30頁(現地研修会レポート)
  • 窪田英治「やっぱりあった素盞嗚尊の社 ──所縁深い亀岡元出雲大神宮」『神の国』平成6年(1994年)1月号、15~19頁

戦前の宮司

  • 明治16年(1883年)12月27日 藤木保受[18] [19]
  • 明治44年(1911年)5月23日 広瀬侍郎(じろう)[20] [21] [22]
    • 広瀬侍郎の名は『庚午日記』で王仁三郎が姓名読込み歌として歌っている。〈惟神道も広瀬の宮司仕ふるいさをもいち侍郎きかな〉[23]。その前の頁にも広瀬宮司が宗教博に来たことに関する歌がいくつかある。[24]
    • 広瀬侍郎の略歴:〈明治八年七月千歳村に生る。亀岡高等小学校卒業後専ら国史を学んだ。氏の祖先は今より千二百前国幣中社出雲神社の出雲大社より遷座の際、出雲大社社家広瀬氏より分れて来た名家である。 氏は国幣中社出雲神社主典、禰宜、梅の宮禰宜を経て現在出雲神社宮司となったもので、資性怜悧、社交を善くし、特に歌道に長じ、府下神職会のオーソリチーと呼ばれて居る。〉[25]
  • 昭和8年(1933年)9月16日 広瀬伯紀(のりとし)[26] [27] [22]

王仁三郎との関わり

  • 王仁三郎は出雲神社にたびたび参拝しており、宮司と懇意にしていたようである。しかし、火の御用・水の御用を行った出雲大社元伊勢皇大神社、また熊野新宮神社香良洲神社などのように宗教的な意味づけは、出雲神社に対してはなされていない。御神体山に国常立尊が鎮まっていることは知っていたようだが(→「#国常立尊」)、「元出雲」ということについては何も言及がないようである。
  • 王仁三郎は明治35年(1902年)5月頃、大阪宣教に先立ち、出雲神社に参拝している。そのことが懐古歌集『百千鳥』で歌われており、藤木宮司と話し込んだことが歌われている。[28]
  • 王仁三郎は大正天皇の崩御前に、出雲神社に毎日参拝し大正天皇の健康回復を祈願している[29]。大正天皇は幼少時から病気がちだったが、大正15年(1926年)は年初から体調を崩し、8月には車椅子を使って葉山御用邸へ移り病床生活となった。11月からは宮内省が詳しい病状を発表するようになり、国民による病気平癒祈願が全国に広まった(12月25日崩御)。大国美都雄によると、大正天皇が重病だと知った王仁三郎は〈早朝湯殿において斎戒沐浴をされ、浄衣を着、丹波一の宮の出雲神社に参拝して祈願を凝らされた。これは二週間に及んだ。そして、御聖体の平安を祈り、長久を祈願した。毎朝六時には出かけて行かれるので、聖師の健康を案ずる側近達は「誰か代って行ったらいけませんか」と忠告すると、「それはならぬ。これは臣下としての私の真心だ」と言って真剣にその期間中は食事すら摂して、起居動作も謹しんで光照殿の一室に静座されていた。その期間中は神務や面会も一切さけておられた〉[30] [31]
  • 王仁三郎が天祥地瑞を口述した千歳庵は、出雲神社から献納された館を天恩郷中之島に移築したもの。神社入り口右手の高台にあった牡丹園の建物を移築した。昭和8年(1933年)7月30日に千歳庵の地鎮祭が行われ、10月4日から天祥地瑞の口述が開始された。[32] [33] [34]
  • 王仁三郎は出雲神社に狛犬を奉納している。唐金(からかね、青銅のこと)で造られていると言われているが、木製だとも言われている。[35] [36]
  • 大本総長・宇佐美龍堂が出雲大神宮の宮司(あるいは権宮司)を務めていたことがある。[37] [38]

ギャラリー

その他

昭和24年(1949年)に宗教法人として設立された「出雲大神宮教」(大阪市東淀川区)という新宗教がある。その創始者・下野善弘は出雲の日御碕神社大阪分院長をしていた者で、亀岡の出雲大神宮とは無関係。[39]

外部リンク

脚注

  1. 神社パンフレットによるとその典拠は「丹波国風土記」。
  2. 神社パンフレットによる。
  3. 式内社2861社のうち「出雲神社」という名称の神社は3社ある。丹波国桑田郡、出雲国出雲郡、周防国佐波郡にあるが、丹波国桑田郡(現・出雲大神宮)は名神大社で、他は小社である。延喜式神名帳
  4. 『宗教年鑑 昭和32年版』(昭和33年3月発行)177頁、NDLDL蔵書
  5. おそらく昭和29年(1954年)に神社本庁から離脱して単立法人となった時に「出雲大神宮」に改名したのだと思われる。『京都年鑑 昭和27年版』(昭和26年11月発行)536頁、NDLDL蔵書には、京都府神社庁所属の〈出雲神社〉と記されている。『宗教年鑑 昭和32年版』177頁には名称は〈出雲大神宮〉で〈29年単立新法人となる〉と記されている。
  6. 「出雲大神宮」は出雲大社の別称の一つである。記紀にそれぞれ1回ずつ見える。日本書紀の崇神天皇60年秋7月朔日に「武日照命《たけひなてるのみこと》の、天より持ち来れる神宝を、出雲大神宮《いづものおほかみのみや》に蔵《をさ》む」とある。また古事記の垂仁天皇の段に「その祟りは出雲の大神の御心なり。故《かれ》その御子を、その大神の宮を拝《をろが》ましめに」とある。
  7. 7.0 7.1 高橋新吉『神社参拝』
  8. 永光尚『亀岡百景』
  9. 御祭神」(2024/7/20閲覧)
  10. 「丹波国風土記」という文献は存在しない。「丹波国風土記逸文」も存在しない。出雲大神宮の説明における「丹波国風土記」とは具体的に何の文献を指しているのかは不明である。風土記は和銅6年(713年)に元明天皇が各国に編纂を命じたもので、出雲・播磨・肥前・常陸・豊後の5ヶ国の風土記しか現存しない。他の国の風土記は「逸文」として断片的に伝えられている。「逸文」とは後世の文書に引用されている文章である。丹国風土記逸文は存在するが、丹国風土記逸文は発見されていない。実際には「丹波国風土記」と称する文献がいくつかあるが、地名しか書いてなかったり(多和文庫の丹波国風土記注進)、後世に作られた別書物だったり(池底叢書の丹波国風土記)する。
  11. 『京都府写真帖』
  12. 『神まうで』
  13. 『近畿の名蹟 第8』
  14. 『大日本神社志 3』
  15. 真如の光』大正15年(1926年)6月25日号、24頁
  16. 2010年頃に入手したもの。
  17. 三輪義凞『神皇記』(宮下文書のダイジェスト版)34~35頁に、国常立尊(天之御中世の第15代高皇産霊神の第五子)は「田場国」(丹波国)の「田羽山の陵」に葬られたと記されている。
  18. 官報 明治17年(1884年)2月2日19頁下段左端 NDLDL蔵書
  19. 藤木は禰宜だったが宮司へ昇格。
  20. 広瀬は禰宜だったが宮司へ昇格。前宮司の藤木は高良神社(筑後国一宮。久留米市)の宮司へ転勤。
  21. 官報 明治44年(1911年)5月24日574頁下段右 NDLDL蔵書
  22. 22.0 22.1 名「じろう」「のりとし」の読み方は窪田「やっぱりあった素盞嗚尊の社」17頁による
  23. 庚午日記 二の巻』269頁、昭和5年(1930年)3月10日の条、NDLDL蔵書
  24. 庚午日記 八の巻』9月10日条、『更生日記 二の巻』昭和6年(1931年)2月8日条、『壬申日記 八の巻』昭和7年(1932年)8月27日条にも広瀬宮司が歌われている。
  25. 『丹波及丹波人』昭和6年(1931年)、丹波青年社、574頁、NDLDL蔵書
  26. 官報 昭和8年(1933年)9月18日434頁三段目 NDLDL蔵書
  27. 広瀬侍郎は依願退職。伯紀は侍郎の息子。
  28. 懐古歌集『百千鳥』(昭和52年、天声社)79頁〈大阪に愛善の道ひらかむと出雲神社にまづ詣でけり〉。88~93頁に出雲神社に参拝し藤木宮司と話したことが歌われている。その後、愛宕神社(出雲神社のすぐ近くにある元愛宕ではなく、愛宕山上の総本宮)に参拝している。この大阪宣教は神示によって中止になり、高熊山に入って第三回目の修業を行った。一ヶ月ほど後の6月頃に大阪宣教に行った。
  29. 王仁三郎は天恩郷においても病気回復の祈願を行っている。たとえば『真如の光』大正15年(1926年)12月5日号「天恩郷だより」34頁には、11月26日の夕拝後に「聖上陛下御不例御平癒祈願式」が行われ、王仁三郎が祈願の祝詞を奏上したと記されている。また『真如の光』大正15年8月25日号5頁、同9月5日号43頁には8月12日・29日に出雲神社に参拝した歌があるが、時期的にこれも大正天皇の平癒祈願か?
  30. 大国美都雄『真偽二道』280~281頁
  31. 大本年表」にはこの年の12月16日に「聖師、亀岡郊外の出雲神社に参拝」とある。
  32. 『[[神の国 (愛善苑)|]]』平成4年(1992年)1月号、29頁3段目
  33. 窪田「やっぱりあった素盞嗚尊の社」15頁、18頁下段
  34. 大本年表
  35. 『[[神の国 (愛善苑)|]]』平成4年(1992年)1月号、29頁3段目
  36. 窪田「やっぱりあった素盞嗚尊の社」17頁下段
  37. いづとみづ』昭和59年(1984年)10月号、25頁上段
  38. 窪田「やっぱりあった素盞嗚尊の社」18頁上段
  39. 『宗教家名鑑 昭和29年版』日本宗教時報社、10頁、NDLDL蔵書