「本宮山」の版間の差分
編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
| 1行目: | 1行目: | ||
[[ファイル:本宮山1.jpg|thumb|朝霧に包まれた本宮山。2017年2月撮影。]] | [[ファイル:本宮山1.jpg|thumb|朝霧に包まれた本宮山。2017年2月撮影。]] | ||
[[ファイル:本宮山と四尾山2022.jpg|thumb|本宮山と[[四尾山]]。2022年2月撮影。]] | [[ファイル:本宮山と四尾山2022.jpg|thumb|本宮山と[[四尾山]]。2022年2月撮影。]] | ||
[[ファイル:本宮山(天王平から)2008.jpg|thumb|[[天王平]]から望む本宮山。2008年2月撮影。]] | [[ファイル:本宮山(天王平から)2008.jpg|thumb|[[天王平]]から望む本宮山。2008年2月撮影。]] | ||
[[ファイル:本宮山と蚕業試験場(絵葉書).jpg|thumb|戦前の本宮山。撮影時期不明。[[寺山]]から撮影したのだと思われる。]] | [[ファイル:本宮山と蚕業試験場(絵葉書).jpg|thumb|戦前の本宮山。撮影時期不明。[[寺山]]から撮影したのだと思われる。]] | ||
[[ファイル:本宮山の神声碑(絵葉書).jpg|thumb|本宮山山頂の[[神声碑]]。撮影時期不明(戦前)。]] | [[ファイル:本宮山の神声碑(絵葉書).jpg|thumb|本宮山山頂の[[神声碑]]。撮影時期不明(戦前)。]] | ||
| 74行目: | 72行目: | ||
祥雲閣の前の和知川(由良川)に赤黒色の300キロほどの岩石があった。宇城(うしろ)宣伝使<ref>[[宇城信五郎]](宇城省向)か?</ref>はそれを霊石と感じ、大正14年(1925年)旧7月12日(新8月30日)誕生祭の日に川から引き上げて祥雲閣に運び入れた。後日、王仁三郎がその岩石を見て「竜頭石(りゅうとうせき)」と命名した。その後祥雲閣の門口に置かれていたが、王仁三郎の命令で本宮山に運ばれることになった。昭和2年(1927年)3月10日に竜頭石が祥雲閣から本宮山山頂に運ばれ、[[本宮山神殿]]跡に安置された。そして祥雲閣の横から本宮山山頂まで竜神の通り道を造ることになり、翌11日に地鎮祭が行われ工事が始まった。〔『[[真如の光]]』昭和2年(1927年)3月15日号{{obc|Z9041|「綾部だより」48-49頁}}による。「大本年表」にも記載あり。〕 | 祥雲閣の前の和知川(由良川)に赤黒色の300キロほどの岩石があった。宇城(うしろ)宣伝使<ref>[[宇城信五郎]](宇城省向)か?</ref>はそれを霊石と感じ、大正14年(1925年)旧7月12日(新8月30日)誕生祭の日に川から引き上げて祥雲閣に運び入れた。後日、王仁三郎がその岩石を見て「竜頭石(りゅうとうせき)」と命名した。その後祥雲閣の門口に置かれていたが、王仁三郎の命令で本宮山に運ばれることになった。昭和2年(1927年)3月10日に竜頭石が祥雲閣から本宮山山頂に運ばれ、[[本宮山神殿]]跡に安置された。そして祥雲閣の横から本宮山山頂まで竜神の通り道を造ることになり、翌11日に地鎮祭が行われ工事が始まった。〔『[[真如の光]]』昭和2年(1927年)3月15日号{{obc|Z9041|「綾部だより」48-49頁}}による。「大本年表」にも記載あり。〕 | ||
== ギャラリー == | |||
<gallery> | |||
ファイル:本宮山2016.jpg|平成28年(2016年)2月、山陰線の跨線橋から撮影。手前に見える屋根は[[みろく殿]]。 | |||
ファイル:本宮山(天王平から)2022.jpg|[[天王平]]から望む本宮山。2022年2月撮影。 | |||
ファイル:和知川から本宮山を望む(絵葉書).jpg|[[由良川]]から望んだ本宮山。撮影時期不明(戦前)。見づらいが左側に[[綾部大橋]]が見える。 | |||
</gallery> | |||
== 外部リンク == | == 外部リンク == | ||