「大正日日新聞社」の版間の差分

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昭和7年(1932年)2月16日、王仁三郎は池沢・米田と手を切り、[[上野音次郎]]([[上野公園]])に会社の権限を委任した。
昭和7年(1932年)2月16日、王仁三郎は池沢・米田と手を切り、[[上野音次郎]]([[上野公園]])に会社の権限を委任した。


ところが米田は題字の上に「夕刊」を加えただけの『夕刊大正日日新聞』という題で発行を続ける。上野はそれとは別に『大正日日新聞』を発行したが、後に米田の方も「夕刊」を付けず『大正日日新聞』と称しているので、同じ題名の新聞が大阪で2紙発行されるという異常事態となった。この騒動を報じた新聞記事が、『壬申日記 4の巻』(昭和7年4月の王仁三郎の日記)に多数のページを割いて転載されている。([[#主な資料]]参照)
ところが米田は題字の上に「夕刊」を加えただけの『夕刊大正日日新聞』という題で発行を続ける。上野はそれとは別に『大正日日新聞』を発行したが、後に米田の方も「夕刊」を付けず『大正日日新聞』と称しているので、同じ題名の新聞が大阪で2紙発行されるという異常事態となった。この騒動を報じた新聞記事が、『壬申日記 4の巻』(昭和7年4月の王仁三郎の日記)に多数のページを割いて転載されている。(「[[#主な資料]]」参照)


上野の『大正日日新聞』は昭和13年に休刊<ref>「正系の大正日日復刊」:〈昭和十三年(略)不肖は斯かる言論界の推移にあき足らず翻然大正日日新聞を休刊して時勢の移行を静観した〉</ref>、米田の『大正日日新聞』は新聞統制により他紙に吸収合併され消滅したようである。
上野の『大正日日新聞』は昭和13年に休刊<ref>「正系の大正日日復刊」:〈昭和十三年(略)不肖は斯かる言論界の推移にあき足らず翻然大正日日新聞を休刊して時勢の移行を静観した〉</ref>、米田の『大正日日新聞』は新聞統制により他紙に吸収合併され消滅したようである。