「黄泉島」の版間の差分
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王仁三郎は昭和7年(1932年)『大阪毎日新聞』6月19日朝刊<ref>『[[昭和青年]]』昭和7年(1932年)8月号p79に「六月廿一日の大毎紙上に 噴火のため海底へ没した文化発祥の花園「ム」大陸奇談 なる題下に」云々という記事があるが、実際には6月19日の朝刊に掲載されている。</ref> <ref>その後『サンデー毎日』昭和7年8月特大号、10月2日号にムー大陸が紹介された。</ref>)でムー大陸の記事(画像参照)を見て、ムー大陸とは「霊界物語中に示された黄泉島の事である」と発言している。〔{{kgm|561|「ム」大陸は黄泉島}}、初出は『神の国』昭和7年10月号〕 | 王仁三郎は昭和7年(1932年)『大阪毎日新聞』6月19日朝刊<ref>『[[昭和青年]]』昭和7年(1932年)8月号p79に「六月廿一日の大毎紙上に 噴火のため海底へ没した文化発祥の花園「ム」大陸奇談 なる題下に」云々という記事があるが、実際には6月19日の朝刊に掲載されている。</ref> <ref>その後『サンデー毎日』昭和7年8月特大号、10月2日号にムー大陸が紹介された。</ref>)でムー大陸の記事(画像参照)を見て、ムー大陸とは「霊界物語中に示された黄泉島の事である」と発言している。〔{{kgm|561|「ム」大陸は黄泉島}}、初出は『神の国』昭和7年10月号〕 | ||
ちなみにチャーチワードが『The Lost Continent of Mu』を発刊したのは1926年、『The Children of Mu』<ref> | ちなみにチャーチワードが『The Lost Continent of Mu』を発刊したのは1926年、『The Children of Mu』<ref>邦題『南洋諸島の古代文化』外部リンク参照</ref>を発刊したのは1936年であり、王仁三郎はそれより数年以上前(1922年)に霊界物語で太平洋の失われた大陸の存在を発表していたことになる。 | ||
日本で最初にチャーチワードの説が紹介されたのは、大正15年(1926年)2月『旬刊写真報知』の記事のようである。<ref>『旬刊写真報知』大正15年(1926年)2月15日、報知新聞社出版部、19頁「どつと沈んだ太平洋の大陸 有史前の珍しい話」。【参考】[https://jyunku.hatenablog.com/entry/2023/08/03/065808 大正15年2月日本に上陸していたチャーチワードのムー大陸伝説] - 神保町系オタオタ日記</ref> | 日本で最初にチャーチワードの説が紹介されたのは、大正15年(1926年)2月『旬刊写真報知』の記事のようである。<ref>『旬刊写真報知』大正15年(1926年)2月15日、報知新聞社出版部、19頁「どつと沈んだ太平洋の大陸 有史前の珍しい話」。【参考】[https://jyunku.hatenablog.com/entry/2023/08/03/065808 大正15年2月日本に上陸していたチャーチワードのムー大陸伝説] - 神保町系オタオタ日記</ref> | ||
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== 外部リンク == | == 外部リンク == | ||
* ゼ・チャーチワード 著、仲木貞一 訳『南洋諸島の古代文化』昭和17年(1942年)、岡倉書房、{{ndldl|3440673}} | |||
* {{wp|ムー大陸}} | * {{wp|ムー大陸}} | ||
* {{wp|ジェームズ・チャーチワード}} | * {{wp|ジェームズ・チャーチワード}} | ||