「祖霊社」の版間の差分
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* 明治45年(1912年)5月1日、祖霊社が竣工する。各家の祖霊を祖霊社に鎮祭する。警察の圧迫が激しく、合法的なものとするため、表向きは[[大社教本宮教会本院]]と称し、[[大社教]]の祖霊分社にした。<ref>『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c2115|明治の晩期}}」</ref> | * 明治45年(1912年)5月1日、祖霊社が竣工する。各家の祖霊を祖霊社に鎮祭する。警察の圧迫が激しく、合法的なものとするため、表向きは[[大社教本宮教会本院]]と称し、[[大社教]]の祖霊分社にした。<ref>『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c2115|明治の晩期}}」</ref> | ||
* | * 大正4年(1915年)祖霊社を上野161番地に造営し、4月16日に遷座祭を行った。それまでの祖霊社は[[金竜殿]]の近くにあった。新しい祖霊社は、当時の綾部町役場<ref>当時の町役場は上野にあった。</ref>前にある元・金光教会の建物を譲り受けて改築して、祖霊社とした。<ref>『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195401c2122|「敷島新報」と直霊軍部隊}}」</ref> | ||
* 大正8年(1919年)[[金竜殿]]に祭られていた[[大本皇大神]]は[[至聖殿]]に遷り、翌大正9年10月10日から金竜殿が祖霊社となった<ref>『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195401c2323|綾部神苑の拡張と整備}}」</ref>。旧・祖霊社は[[新祭殿]]と称し、信者の葬祭場となった(そこで新霊を五十日間祀ったあと五十日目に祖霊社に合祀)<ref>『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195401c2325|祭事}}」</ref>。 | * 大正8年(1919年)[[金竜殿]]に祭られていた[[大本皇大神]]は[[至聖殿]]に遷り、翌大正9年10月10日から金竜殿が祖霊社となった<ref>『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195401c2323|綾部神苑の拡張と整備}}」</ref>。旧・祖霊社は[[新祭殿]]と称し、信者の葬祭場となった(そこで新霊を五十日間祀ったあと五十日目に祖霊社に合祀)<ref>『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195401c2325|祭事}}」</ref>。 | ||
* 第二次大本事件で破壊された。 | * 第二次大本事件で破壊された。 | ||
2025年4月5日 (土) 23:23時点における版


それいしゃ(それいしゃ)は、祖先の霊を祭る社で、綾部にある。建物は何度か移動している。
概要
- 明治45年(1912年)5月1日、祖霊社が竣工する。各家の祖霊を祖霊社に鎮祭する。警察の圧迫が激しく、合法的なものとするため、表向きは大社教本宮教会本院と称し、大社教の祖霊分社にした。[1]
- 大正4年(1915年)祖霊社を上野161番地に造営し、4月16日に遷座祭を行った。それまでの祖霊社は金竜殿の近くにあった。新しい祖霊社は、当時の綾部町役場[2]前にある元・金光教会の建物を譲り受けて改築して、祖霊社とした。[3]
- 大正8年(1919年)金竜殿に祭られていた大本皇大神は至聖殿に遷り、翌大正9年10月10日から金竜殿が祖霊社となった[4]。旧・祖霊社は新祭殿と称し、信者の葬祭場となった(そこで新霊を五十日間祀ったあと五十日目に祖霊社に合祀)[5]。
- 第二次大本事件で破壊された。
- 昭和22年(1947年)4月23日(当時は「愛善苑」)、本宮山の山麓にある旧・弓場(現・要荘)を改修し祖霊社とした。[6]
- 昭和23年(1948年)9月17日、祖霊社が要荘から彰徳殿内に遷された。[7]
- 昭和32年(1957年)10月15日、彰徳殿からみろく殿に祖霊社が遷される(大神様神床の下座)。[8]