「入蒙記」の版間の差分
編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
21行目: | 21行目: | ||
* 入記は実名で記されているが、入蒙記では一部の人物が仮名で記されている。 | * 入記は実名で記されているが、入蒙記では一部の人物が仮名で記されている。 | ||
== あらすじ == | |||
;第1~14章 | |||
:大正13年(1924年)2月12日、源日出雄([[出口王仁三郎]])は白昼の空に上弦の月と太白星が輝くのを見て蒙古入りを決意。真澄別([[松村真澄]])、名田彦([[名田音吉]])、守高([[植芝盛平]])の3人の信者を連れて日本を出発する。 | |||
:16日に[[奉天]]で、馬賊の大巨頭・[[盧占魁]]《ろ せんかい》と面会。「大本ラマ教」を創立して盧占魁を従えて蒙古に進むことに決め、3月3日奉天を出発して北へ向かう。 | |||
;第15~30章 | |||
:このたび日の出の国の大救世主が盧占魁を奉戴して蒙古救援軍を起こすというので、蒙古人は大いに喜び、続々と人が集まって来た。千人近い部隊となって[[庫倫]]《クーロン》(現モンゴルの首都ウランバートル)目指して行軍。5月中旬に[[索倫]]《そうろん》に到着。 | |||
:武器弾薬が届くのを待つためしばらく索倫に滞在するが、東三省保安総司令の[[張作霖]]《ちょう さくりん》が盧占魁を討伐するという情報が入り、事態が悪化して行く。脱走者が増えて兵員が800人ほどになり、6月上旬には進路が南に変わって奉天方面へ引き返す。 | |||
;第31~39章 | |||
:6月21日、[[パインタラ]]で王仁三郎一行は張作霖の軍に捕まり、盧占魁は銃殺されてしまう。王仁三郎たちも銃殺刑となり処刑場に並ばされるが、なぜか弾が出ない。王仁三郎は辞世の歌を7回も詠み、やがて銃殺刑は中止となった。 | |||
:7月5日、日本の領事館に引き渡され、帰国の途に着く。 | |||
:25日に船を降りて下関に上陸。27日に収監され98日間、監獄に入れられた後、11月1日に綾部に帰還した。 | |||
;入蒙余録 | |||
:巻末に「入蒙余録」として短文が5篇収録されている。その中の「蒙古建国」は三千人の馬賊を率いる女の頭目と出会ったことが歌にして綴られている。女頭目の父が大本開祖・出口直の次男・[[清吉]]ではないか…ということが歌われている。 | |||