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6人は一列に並ばされ、今や機関銃の弾が飛んでくると思う矢先、射手は銃の反動を受けて後ろに倒れたため数分を要した。王仁三郎は〈よしや身は蒙古のあら野に朽つるとも日本男子の品は落さじ〉〈いざさらば天津御国にかけ上り日の本のみか世界を守らむ〉〈日の本を遠く離れて我は今蒙古の空に神となりなむ〉等と辞世を7回詠み、大日本帝国万歳、大本万歳を三唱した。そうこうするうちに銃殺は中止となり、一行は通遼公署<ref>通遼は白音太拉の漢名</ref>附属の監獄へ連行された。〔{{rm|nm|34|竜口の難}}〕
6人は一列に並ばされ、今や機関銃の弾が飛んでくると思う矢先、射手は銃の反動を受けて後ろに倒れたため数分を要した。王仁三郎は〈よしや身は蒙古のあら野に朽つるとも日本男子の品は落さじ〉〈いざさらば天津御国にかけ上り日の本のみか世界を守らむ〉〈日の本を遠く離れて我は今蒙古の空に神となりなむ〉等と辞世を7回詠み、大日本帝国万歳、大本万歳を三唱した。そうこうするうちに銃殺は中止となり、一行は通遼公署<ref>通遼は白音太拉の漢名</ref>附属の監獄へ連行された。〔{{rm|nm|34|竜口の難}}〕
=== 帰国 ===
[[白音太拉]]の鴻賓旅館で王仁三郎一行が捕縛された時、そこに泊まっていた日本人が翌朝、庭に大本の神器の杓子が一本落ちているのを見つけた。その日本人はそれが大本のものだと気づき、王仁三郎一行の遭難を知り、朝一番の汽車に乗って[[鄭家屯]]の日本領事館に届けた。領事館から急行した[[土屋書記生]]は22日夕方、白音太拉に到着し、王仁三郎一行の引き渡しを交渉した。
4~5日経った時、日本から[[広瀬義邦]]が面会に来た。
7月5日、一行はようやく鄭家屯の日本領事館に引き渡され、翌6日、奉天総領事館へ収容された。他に[[名田音吉]]など4人が収容され、計10人は取り調べの結果、三ヶ年の退支処分で一件落着した。
7月21日、大連に着く。22日、大連からハルピン丸に乗り、25日午前、門司に着いた。数多の信者に迎えられ、その光景はあたかも凱旋将軍を迎えるが如き有様であった。〔{{rm|nm|35|黄泉帰}}〕
下関署には[[出口直日]]が待っていた。護送の警官と共に列車に乗ると、直日ほか役員信者が大勢乗っていた。25日は大竹(広島県)警察署、26日は上郡(兵庫県)警察署の拘留所に宿泊した。27日に大阪へ着き、大阪刑務所北区支所(若松町)に収監された(7月17日付で責付が取り消されていたため)。98日の牢獄生活を経て、11月1日午前11時11分に若松支所を出た。外には役員信者数百名、その他新聞記者や見物人が沿道に黒山の如くに並んでた。小雨が降る中を、さぬきや旅館に入り、食事をした後、無事帰綾した。〔{{rm|nm|36|天の岩戸}}、大本年表〕


== 略年表 ==
== 略年表 ==