「浅野和三郎」の版間の差分

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
編集の要約なし
50行目: 50行目:


* 長男・勝良:明治34年(1901年)生誕
* 長男・勝良:明治34年(1901年)生誕
* 次男・新樹:明治37年(1904年)生誕
* 二男・新樹:明治37年(1904年)生誕
* 三男・三郎:明治40年(1907年)生誕
* 三男・三郎:明治40年(1907年)生誕
* 長女・美智子:大正7年(1918年)生誕
* 長女・美智子:大正7年(1918年)生誕
141行目: 141行目:
* 浅野は大正5年(1916年)12月11日、横須賀から綾部に移住し<ref>「綾部を去る」</ref>、14年7月11日に綾部を去ったので、綾部に住んでいたのは8年7ヶ月ということになる。ただしその間ずっと綾部に住んでいたのではなく、9~10年頃は大阪に住んでいた時期もあるようである。<ref>『[[冬籠]]』87頁〈近頃は大阪方面に居を卜し、綾部に帰る機会が甚だ少いので〉、131頁〈たうとう昨年からは大阪方面に出動することになつて了つた〉。</ref>
* 浅野は大正5年(1916年)12月11日、横須賀から綾部に移住し<ref>「綾部を去る」</ref>、14年7月11日に綾部を去ったので、綾部に住んでいたのは8年7ヶ月ということになる。ただしその間ずっと綾部に住んでいたのではなく、9~10年頃は大阪に住んでいた時期もあるようである。<ref>『[[冬籠]]』87頁〈近頃は大阪方面に居を卜し、綾部に帰る機会が甚だ少いので〉、131頁〈たうとう昨年からは大阪方面に出動することになつて了つた〉。</ref>


昭和4年(1929年)2月28日、次男・新樹が24歳で病死する。妻の多慶子は新樹の死をきっかけに霊言(霊界通信)を行うようになり、それは『新樹の通信』や『小桜姫物語』として発表された。多慶子は夫・和三郎が死んだ後、新樹の霊に夫の幽体離脱の場面を語らせている<ref>「父の臨終を視る」という題で『新樹の通信』に収録。</ref>。<ref>『神の罠』207~216頁</ref>
昭和4年(1929年)2月28日、二男・新樹が24歳で病死する。妻の多慶子は新樹の死をきっかけに霊言(霊界通信)を行うようになり、それは『新樹の通信』や『小桜姫物語』として発表された。多慶子は夫・和三郎が死んだ後、新樹の霊に夫の幽体離脱の場面を語らせている<ref>「父の臨終を視る」という題で『新樹の通信』に収録。</ref>。<ref>『神の罠』207~216頁</ref>


4年12月、浅野は東京心霊科学協会(現・財団法人日本心霊科学協会)を設立。
4年12月、浅野は東京心霊科学協会(現・財団法人日本心霊科学協会)を設立。

2025年2月12日 (水) 18:37時点における版

浅野和三郎(あさの わさぶろう、1874~1937年)は、大本の大幹部。海軍機関学校の英語教官だったが、大本に出会い入信。機関誌『神霊界』主筆兼編集長、大日本修斎会総裁、大正日日新聞社社長などを務める。第一次大本事件で検挙・起訴され、離教。その後は心霊研究に邁進し、日本の心霊主義運動の大家となる。筆名・馮虚(ひょうきょ)(憑虚とも)、浅野和邇三郎(わにさぶろう)。兄の浅野正恭(海軍中将)も大本に入信し、その養子・浅野遙出口王仁三郎の二女・梅野と結婚した。

略年表

  • 明治7年(1874年)8月13日、茨城県生まれ。
  • 明治29年(1896年)東京帝大の英文学科に入学。
  • 明治32年(1899年)大学を卒業。東京商業学校の英語教員となる。
  • 明治33年(1900年)横須賀の海軍機関学校の英語教官となる。
  • 大正4年(1915年)大本と出会う。
  • 大正5年(1916年)初参綾。年末に綾部に移住。(42歳)
  • 大正6年(1917年)機関誌『神霊界』主筆兼編集長となる。
  • 大正8年(1919年)大日本修斎会の総裁となる。
  • 大正9年(1920年)大正日日新聞社の社長となる。
  • 大正10年(1921年)第一次大本事件により検挙・起訴される。
  • 大正12年(1923年)東京で心霊科学研究会を設立。
  • 大正14年(1925年)綾部を離れ横浜に移住。(51歳)
  • 昭和4年(1929年)東京心霊科学協会を設立。
  • 昭和12年(1937年)2月3日、帰幽。(62歳)

略史

第一次大本事件裁判で大阪控訴院に出廷する浅野和三郎(右)と出口王仁三郎(左)

(大本との関わりを中心にした略史)

【出生】

明治7年(1874年)8月13日、茨城県稲敷郡(いなしきぐん)源清田村(げんせいだむら。現・稲敷郡河内町 源清田)で、代々医業を家業とする浅野家の三男として和三郎は生まれた。父・元斎(げんさい。婿養子)、母・かん。長兄・璋(あきら)、次兄・正恭(浅野正恭)。[1]

【学生時代】

明治29年(1896年)第一高等学校から東京帝国大学英文学科に進学。担当の教師は小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)だった。

13~4歳頃から文学に興味を持ち、大学在学中に小説を書いて雑誌に投稿する。『帝国文学』明治31年3月号で発表された短編小説「吹雪」が処女作[2]。筆名は「馮虚(ひょうきょ)」(後に「憑虚」とも号する)。その後も文才を発揮して小説を次々と発表した。

【教員時代】

明治32年(1899年)7月、大学を卒業。9月から東京商業学校の英語教員となる。その一方、本格的に文学活動を始める。[3]

明治33年(1900年)1月、横須賀の海軍機関学校の英語教官となる[4]。住居も東京から横須賀に移る。

浅野は英文翻訳も多数手がけ、日本初のシェークスピア全集[5] [6]や、英和辞書の編纂も行った[7]

【結婚】

明治33年(1900年)11月、多慶子(たけこ)と結婚。多慶子は兄・浅野正恭の妻・松子の妹である[8]

【家族】

次の4人の子がいる。[9]

  • 長男・勝良:明治34年(1901年)生誕
  • 二男・新樹:明治37年(1904年)生誕
  • 三男・三郎:明治40年(1907年)生誕
  • 長女・美智子:大正7年(1918年)生誕

【神秘現象との出会い】

明治の終わり頃[10]、中島与曽八・海軍機関大佐が家族や女中を被験者にして催眠術の実験をさかんに行っていた。浅野は実験を見学し、なぜ催眠現象が生じるのか疑問を抱くようになる。[11]

大正4年(1915年)春、三男の三郎が謎の発熱を起こす。体温は37度3~4分で、午前10時頃になると発熱し、日暮れには熱が下がる。そういう怪現象が連日続き、半年も続いた。10月初旬、妻が浅野に内証で行者に頼んで三郎の祈祷をしてもらったと告白をする。その行者は米ヶ浜祖師堂(横須賀市深田台にある竜本寺)の近くで「孝信教会」という看板を掲げている「石井ふゆ」という女行者で、通称「三峰山」と呼ばれており、祈祷がよく効き、透視もできるということだった。浅野は妻から告白され、そんな加持祈祷のような迷信に頼ることを不快に感じた。しかし妻に「調べていただけませんか」と頼まれ、三峰山に行ってみることにした。

浅野が教会(宗教団体)のようなところへ行ったのはこれが生まれて初めてであった。浅野は女行者に、三郎の病気は11月4日に平癒すると言われた。この行者の能力を調べるため透視実験を頼んだところ、透視が適中したため驚いた。三郎の発熱は11月4日には起きず、それ以降全く病気は治り、女行者の言った通りになった。このとき浅野は『有難い』『嬉しい』『不思議だ』という三つの感情が入り混じった気持ちだった。[12]

【大本との出会い】

大正4年(1915年)の暮、浅野は三峰山に詣ると、そこで飯森正芳・海軍機関中佐とばったり出会った。飯森は大尉時代に海軍機関学校の教官をしていたことがあるため、浅野と旧知の間柄であった。飯森は「直霊軍」(大本の組織)の襷をしていた。飯森は大本に入信し、丹波に移住したという。浅野は飯森から大本の話を聞き、興味を持った。

それ以降、浅野は飯森を度々自宅に呼び、大本の話を聞いた。それは翌5年の2月頃まで約2ヶ月続いた。飯森は福島久子を連れて浅野宅に出向いた。浅野は2人から熱心に大本の話を聞かされ、大本のことが念頭から離れないようになった。[13] [14]

【初めての参綾】

大正5年(1916年)3月末、浅野は海軍から大阪への出張を命じられ、その帰途に綾部に寄ることにした。軍の用務は、3月末から4月3日まで大阪で開催された英語大会への出席である。

大会が終わり、翌4月4日、浅野は綾部の大本を訪問した[15]。その日は王仁三郎澄子と面会した。翌5日、教祖の出口直と面会する(浅野が出口直に対面したのはこれが最初で最後である)。浅野は教祖の神々しさに感心した。〈教祖に会ってからの自分の胸には、一種の烈々たる火焔が燃え出した〉[16][17]

【王仁三郎の横須賀来訪】

浅野は教祖と面会後、深夜(翌6日2時過ぎ)の汽車で綾部を発ち、横須賀の自宅に帰宅した。大本を信仰するにはまだ遠かったが、大本をもっと研究するために、王仁三郎に横須賀へ来てもらい修業をしようと考えた。

4月下旬、王仁三郎を迎えるため妻と長男を綾部に行かせる。4月28日、妻・長男と共に王仁三郎が横須賀にやって来た[18]。以降、浅野は母屋から離れた書斎を王仁三郎の居間として使ってもらい、人を集めて教えの勉強や、鎮魂帰神の実習を行う。この鎮魂帰神の修業が〈これが自分にとりてもまた大本に取りても、一大転換期を画すべき重大事件であったとは後に至りて思ひ知られた〉[19]

王仁三郎が横須賀に滞在して4日目、走水神社(横須賀市走水。日本武尊と弟橘媛を鎮祭)に一同で参拝。ここで鎮魂中に村野滝州(綾部から王仁三郎と共に横須賀にやって来た信者)の天眼に、先ほど拾った石笛は「木花咲耶姫尊の命により小桜姫これを浅野に授く」、という文字が見えた。その晩、自宅の書斎(王仁三郎の居間)で人が集まり鎮魂していると、浅野の妻・多慶子が神がかりし「小桜姫」と口を切った。〈さては小桜姫とは妻の守護神であったのか〉[20][21]

5月初旬に王仁三郎は村野と共に横須賀を発ち西へ帰った[22] [23]。まだ修業の身の浅野たちを置き去りにして王仁三郎が帰ったのは神の試練であり、〈言はば自力で立て、自力で学べ、自力で悟れ、他にたよるなといふ事の、実地教育を施されたものであった〉[24]

【二度目の参綾】

夏季休暇中の7月下旬、単身綾部に向かった。[25]。この二度目の大本滞在中、浅野は筆先の研究に没頭し、その予言・警告が絶対的に正確だと覚る[26]。8月中旬には、仕事を辞めて綾部に移住することを決心[27]和知川沿いの並松で売りに出ていた二階建ての家を購入(土地200坪)[28]。8月下旬に横須賀に帰宅した[29] [30]。(実際に綾部に移住したのは12月[31]

【綾部への移住】

浅野は帰宅後、辞職の手続きをし、学年が終わる11月末日まで勤務することとなった[32] [33]

浅野は大本の沿革・教義等を略説した文章を書いて発表しようとしたが、それを掲載してくれる雑誌は少なかった。そのため自分で雑誌を発行しようと決心した[34]

11月28日に王仁三郎村野滝州を伴い、浅野を迎えに綾部から横須賀へやって来た[35] [36]

12月10日、浅野は家族と共に横須賀を発ち汽車で綾部に向かう。この時、王仁三郎・村野滝州と、八丈島の奥山親子も一緒だった。翌11日に綾部に着いた。[37]

綾部に向かう汽車の中で王仁三郎に雑誌刊行の話をしたところ、大本の機関誌『敷島新聞』を『神霊界』に改題し、1月1日から発行することに決まった[38]

【大本幹部として】

大正6年(1917年)1月、『神霊界』創刊。浅野は主筆兼編集長となる。以後、誌上でたびたび論考を発表したり、書籍を発刊したりして、筆を揮う。6年5月1日号からは「浅野和邇三郎」という筆名を使うようになった。 →「#主な著作

6年4月24日、浅野は王仁三郎・大宮守子(鶴殿親子)らと共に総勢11名で吉野へ行き、柏木の八幡社に参拝する。27日帰綾。[39] [40] [41]

大正8年(1919年)1月、『神霊界』1月1日号で浅野は「大正十年立替説」を発表する。〈本年は大正八年である。弥の歳である。いよいよの年である。『三干年の世の立替えも迫りけり後の三年に心ゆるすな』。これは大正七年五月十日教主に神懸まして詠まれたる二百首中の一首である。後の三年の第一年は本年である〉[42]。これは今から3年後の大正10年に世の立替えが起きるという終末論である。

8年2月28日、浅野は大日本修斎会の会長となる。[43]

8年10月1日(旧8月8日)、言霊踏査隊が綾部を出発。浅野はその第二隊として高見元男(後の出口日出麿)らと共に一行10名で伊吹山へ向かう。翌2日(旧8月9日)山頂に達し言霊を発射する。また11月9日(旧9月17日)、浅野は第四隊として出口大二ら一行35名で竹生島へ向かった。[43] [44]

大正9年(1920年)3月3日、大日本修斎会の組織が改編され、浅野和三郎は総裁に就任する。副総裁には梅田信之浅野正恭が就いた。同年11月3日には皇道大本役員の最高位である大教統に浅野和三郎・梅田信之四方平蔵が就く。[43]

9年8月、大本が大正日日新聞社を買収。王仁三郎が社主、浅野和三郎が社長となる。9月25日に再刊第1号を発行。「再刊の辞」は浅野が書いた。大正日日新聞は再刊後、部数が減少し、経営難となる。

大正10年(1921年)1月13日[45]、大正日日新聞社は社長浅野和三郎以下総辞職。代わって王仁三郎が社長となり陣頭指揮を執る。

【第一次大本事件】

10年2月12日、第一次大本事件勃発。出口王仁三郎、浅野和三郎、吉田祐定(『神霊界』発行兼編集人)の3人が検挙された。浅野は不敬罪の容疑で午前9時頃に綾部の自宅で検挙され、京都監獄未決監に収監された。[46] [47]

  • 126日後の6月17日、王仁三郎と浅野は責付出獄し綾部に帰った[48]。それ以降、大本教団は王仁三郎によって改革されて行くが、浅野は教団指導者の地位から完全に退いた[49]
  • 同年10月5日、第一審(京都地裁)判決が出る。浅野は懲役10ヶ月が言い渡された。即日控訴。[50]
  • 大正13年(1924年)7月21日、第二審(大阪控訴院)判決。一審通り、浅野は懲役10ヶ月の刑となる。直ちに上告。[51]
  • 昭和2年(1927年)5月17日、新天皇の即位に伴う大赦令で免訴となり、6年余りに亘る第一次大本事件は解消した。[52]

【離教】

大正10年(1921年)10月以降、出口王仁三郎によって大本神諭に代わる新たな教典『霊界物語』の口述・出版が進められて行く。それは浅野ら一部幹部が行って来た大本神諭中心の教説が否定的に扱われているため、浅野らは霊界物語の発表を阻止するため強く抵抗した。[53] (顕著な例として『神霊界』大正10年2月号に掲載された王仁三郎著「回顧録」を霊界物語第1巻に「第1巻発端#」として収録するにあたり、大幅な書き換えを迫られたことがあげられる)

浅野は大正5年に入信したが、〈当時から鎮魂帰神への異常な熱意を示し、彼なりの立替え立直し観を保持していた。彼の理想とする世界像は、天皇による世界の統一であった。〉〈浅野の論説や行動は、日ましに役員・信者の一部に共鳴者をうみ、教内に浅野派とよばれる一派をかたちづくるようになった〉[54]。第一次大本事件で弾圧されるまで浅野は自分が吹聴した「大正十年立替説」を確信していた。しかし事件によって浅野の大本信仰が薄らいで行った。〈浅野の考えの内部から、立替えという側面がぬけおちてゆくと、そこにはもはや、神霊の実在ということのみが残された問題となる。したがってその後の浅野の活動は、これを科学的な見地からうらづけようとする方向にむかわざるをえなくなるのである〉[54]。こうして浅野は大正11年の終わり頃から、心霊研究会創立のために活動するようになる。[54]

【心霊科学】

大正12年(1923年)3月23日、浅野は東京で心霊科学研究会を設立。本郷区元町一丁目五番地の中野岩太邸を借りて本部事務所を置いた(9月1日関東大震災で焼失)。機関誌『心霊研究』を発刊(後に『心霊界』、『心霊と人生』と改題)。[55]

大正14年(1925年)7月11日、綾部を去り、横浜市鶴見に移住。[56]

  • 浅野は大正5年(1916年)12月11日、横須賀から綾部に移住し[57]、14年7月11日に綾部を去ったので、綾部に住んでいたのは8年7ヶ月ということになる。ただしその間ずっと綾部に住んでいたのではなく、9~10年頃は大阪に住んでいた時期もあるようである。[58]

昭和4年(1929年)2月28日、二男・新樹が24歳で病死する。妻の多慶子は新樹の死をきっかけに霊言(霊界通信)を行うようになり、それは『新樹の通信』や『小桜姫物語』として発表された。多慶子は夫・和三郎が死んだ後、新樹の霊に夫の幽体離脱の場面を語らせている[59][60]

4年12月、浅野は東京心霊科学協会(現・財団法人日本心霊科学協会)を設立。

昭和12年(1937年)2月3日、帰幽。満62歳(数え64歳)。

[主な参考文献]

主な著作

(大本関係のみ)

  • 皇道大本略説』、大正7年(1918年)8月
  • 大本神諭略解』(皇道大本叢書 第一篇)、大正7年(1918年)11月
  • 古事記と現代』(皇道大本叢書 第三篇)、大正8年(1919年)2月
  • 祝詞釈義』(皇道大本叢書 第五篇)、岩田久太郎との共著、大正8年(1919年)7月
  • 大正維新の真相』、大正8年(1919年)10月
  • 皇道大本の概要』(皇道大本叢書 第六篇)、大正9年(1920年)3月
  • 出廬』(綾部生活の五年 第一部)大正10年(1921年)2月
    • 出廬 - 霊界物語ネット
  • 冬籠』(綾部生活の五年 第二部)大正10年(1921年)7月
    • 冬籠 - 霊界物語ネット
  • 「綾部を去る」『心霊小品集』昭和14年(1939年)6月、223~246頁
  • 神霊界』誌には「浅野和三郎」「憑虚」「浅野和邇三郎」の名で発表された記事が多数ある。大正6年1月の創刊から8年初頭にかけて、ほぼ毎号、何らかの記事が掲載されている。

関連項目

外部リンク

脚注

  1. 神の罠』11頁
  2. 神の罠』46頁
  3. 神の罠』54,56頁
  4. 海軍機関学校に赴任することになった理由は「ふとした事」と浅野は言うだけで、詳しいことは分からない。『出廬』19頁、『神の罠』74頁
  5. 大学の同級生だった戸沢姑射(とざわ こや)との共訳『沙翁全集』。当所は全37巻の予定だったが4年後に10巻で中断した。『神の罠』89頁、95頁
  6. 神の罠』89頁
  7. この英和辞書の編纂は9割ほど完成したが、大正5年に浅野が大本の鎮魂帰神・霊学研究に熱中し出してから中止した。理由は〈霊的問題と世の立替立直しの前には、いかにもこの仕事の影が薄く見えて、今更ペンを執る気がしなくなつた〉から〔『出廬』174頁〕。
  8. 『神の罠』74頁
  9. 『神の罠』100頁
  10. 『出廬』21頁に〈今の中島機関中将がまだ大佐級の時代であった〉と記されている。中島与曽八(最終階級は中将)が大佐だったのは明治38~45年なので、その頃のことだと思われる。
  11. 『出廬』21~25頁
  12. 『出廬』28~46頁。『神の罠』102頁~
  13. 『出廬』47~53頁
  14. 『出廬』52頁によると、大正4年秋は重大な神勅が次々下り、大本の役員たちは東奔西走した。直霊軍が組織されたのもこの時だった。飯森と福島久子は「東の方に求むる人あり」との神命によって関東方面に出張していた。
  15. 『大本七十年史 上巻』「浅野の入信#」では、4月4日に浅野は妻と共に横須賀から参綾したと記されているが、『出廬』(2-1#56頁)では、自分一人で参綾したように書かれている。帰宅後の場面(2-8#80頁)で妻が登場するので、やはり一人で参綾したようである。
  16. 『出廬』76頁
  17. 『出廬』53~80頁。『神の罠』106~117頁
  18. 『大本七十年史 上巻』「浅野の入信#」では、4月28日に王仁三郎は「浅野夫妻」らと綾部を出発し横須賀にやって来たと記されているが、間違いであろう。『出廬』(2-8#83頁)によると妻・長男と共に王仁三郎は綾部を発ち横須賀に来た。
  19. 『出廬』85頁
  20. 『出廬』112頁
  21. 『出廬』80~114頁。『神の罠』117頁~
  22. 『出廬』122頁
  23. 大本年表」には大正5年4月28日「聖師、横須賀、東京へ巡教」。5月9日「聖師、大阪へ巡教」と記されている。
  24. 『出廬』123頁
  25. 29日は園部の奥村宅に滞在し、30日から綾部に滞在。『出廬』185、189、192頁。
  26. 『出廬』204頁
  27. 『出廬』211頁。
  28. 『出廬』231頁。
  29. 『出廬』237頁。
  30. 236頁に〈二十五日目で横須賀中里の自宅へ戻った〉と記されているので、7月30日から25日目だとすると、8月23日に帰宅したことになる。
  31. 『出廬』212頁
  32. 『出廬』237頁。
  33. 12月1日付で退職の辞令が出る。『出廬』271頁。
  34. 『出廬』239頁。
  35. 『出廬』270頁。
  36. 大本年表」の大正5年11月28日の項に〈聖師、村野を伴い横須賀方面へ巡教〉とある。
  37. 出廬』278頁。『冬籠』3、5頁。
  38. 『冬籠』7~8頁
  39. 『冬籠』(2-6#)107~108頁。〈二十年も前から出口先生の霊眼には、吉野の奥、柏木在の八幡の社と、其付近の地上地中の光景が映つて仕方がない〉
  40. 「山吹の花」『神霊界』大正6年6月1日号37~40頁。〈長髪先生が、十有余年に亘りて幾度となく霊眼に指示されたる神縁の境域〉
  41. 『大本七十年史 上巻』「海軍関係・知識層等の参綾#
  42. 『大本七十年史 上巻』「予言の強調#
  43. 以下の位置に戻る: 43.0 43.1 43.2 大本七十年史 上巻』「本部の動き#
  44. 随筆#」『神霊界』大正8年11月1日号
  45. 大本年表
  46. 『大本七十年史 上巻』「事件のあらまし#
  47. 『大本七十年史 上巻』「検挙#
  48. 『大本七十年史 上巻』「責付出獄#
  49. 『大本七十年史 上巻』「教団の改革#
  50. 『大本七十年史 上巻』「第一審#
  51. 『大本七十年史 上巻』「再入監#
  52. 『大本七十年史 上巻』「本宮山神殿破壊#
  53. 『大本七十年史 上巻』「発表の経過#
  54. 以下の位置に戻る: 54.0 54.1 54.2 『大本七十年史 上巻』「浅野和三郎#
  55. 『神の罠』174頁。「中野岩太郎」と書かれているが「中野岩太」が正しい。住所は「本郷元町一丁目」と記されているが、官報を検索すると「本郷区元町一丁目五番地」が中野武営中野岩太の住所として記されている。
  56. 「綾部を去る」(この著述は移住直後の7月19日に鶴見で書いたもの)
  57. 「綾部を去る」
  58. 冬籠』87頁〈近頃は大阪方面に居を卜し、綾部に帰る機会が甚だ少いので〉、131頁〈たうとう昨年からは大阪方面に出動することになつて了つた〉。
  59. 「父の臨終を視る」という題で『新樹の通信』に収録。
  60. 『神の罠』207~216頁