「大日本武道宣揚会」の版間の差分
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会勢は快調に進展し、国外へも講師を派遣した。昭和9年4月の総会では会員5千人、受講者総数7千人と発表された。しかし〈霊体一如の修練を目的とした創立の精神から逸脱した、一部講師の行為は放置できない状況となった。かつて出口聖師が「大日本武道宣揚会の武道というものは、肩をそびやかしたり腕をまくるのでなく、肩を下げて地蔵さんのような肩になって、愛善の精神をもってやってもらいたい」と注意を与えていたが、竹田においてもその腕っぷしをかわれたエピソードがたえず(略)武勇談などが語りつがれている〉という状況だった。<ref>『[[竹田別院五十年誌]]』142頁</ref> | 会勢は快調に進展し、国外へも講師を派遣した。昭和9年4月の総会では会員5千人、受講者総数7千人と発表された。しかし〈霊体一如の修練を目的とした創立の精神から逸脱した、一部講師の行為は放置できない状況となった。かつて出口聖師が「大日本武道宣揚会の武道というものは、肩をそびやかしたり腕をまくるのでなく、肩を下げて地蔵さんのような肩になって、愛善の精神をもってやってもらいたい」と注意を与えていたが、竹田においてもその腕っぷしをかわれたエピソードがたえず(略)武勇談などが語りつがれている〉という状況だった。<ref>『[[竹田別院五十年誌]]』142頁</ref> | ||
昭和10年7月1日、役員人事が更迭され、会長には植芝の代わりに出口日出麿が就任し、植芝は「範主」として武道の指導にあたることになった<ref name="otb50p143p618" />。これによって第二次大本事件の際、植芝は警察に事情聴取はされたものの、検挙されることはなかった。〈植芝氏は会長職をはなれていたこと、弟子のなかに、官憲や上層部関係者がいたことが幸いしたものと思われる〉<ref>『[[竹田別院五十年誌]]』164~165頁</ref>。 | 昭和10年7月1日、役員人事が更迭され、会長には植芝の代わりに出口日出麿が就任し、植芝は「範主」として武道の指導にあたることになった<ref name="otb50p143p618" />。これによって第二次大本事件の際、植芝は警察に事情聴取はされたものの、検挙されることはなかった。〈植芝氏は会長職をはなれていたこと、弟子のなかに、官憲や上層部関係者がいたことが幸いしたものと思われる〉<ref>『[[竹田別院五十年誌]]』164~165頁</ref> <ref>『植芝盛平伝』226~232頁</ref>。 | ||
10年10月31日(27日から始まった大本大祭の5日目)[[天恩郷]]で大日本武道宣揚会主催の奉納武道大会が約3時間半に亘り盛大に開催され、植芝範主による合気武術の解説・実演や、剣道・気合術・杖術の試合などが行われた<ref>『[[真如の光]]』昭和10年11月17・25日合併号15~17頁</ref> <ref name="B195402c5431" /> <ref>『[[竹田別院五十年誌]]』144頁</ref> <ref>この日、天恩郷の[[明光殿]]にて第一回[[歌祭]]が開催されている。</ref>。(これが大日本武道宣揚会の対外的活動の最後になったようである<ref>広瀬浩二郎『[[人間解放の福祉論]]』149頁の最後の行</ref>) | 10年10月31日(27日から始まった大本大祭の5日目)[[天恩郷]]で大日本武道宣揚会主催の奉納武道大会が約3時間半に亘り盛大に開催され、植芝範主による合気武術の解説・実演や、剣道・気合術・杖術の試合などが行われた<ref>『[[真如の光]]』昭和10年11月17・25日合併号15~17頁</ref> <ref name="B195402c5431" /> <ref>『[[竹田別院五十年誌]]』144頁</ref> <ref>この日、天恩郷の[[明光殿]]にて第一回[[歌祭]]が開催されている。</ref>。(これが大日本武道宣揚会の対外的活動の最後になったようである<ref>広瀬浩二郎『[[人間解放の福祉論]]』149頁の最後の行</ref>) | ||