「大日本武道宣揚会」の版間の差分

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昭和7年(1932年)8月13日(旧7月12日)聖師生誕祭の日に大日本武道宣揚会が発足する<ref name="hossokubi">『[[出口王仁三郎全集]] 第八巻』610頁の年表に〈八月十三日大日本武道宣揚会創立。〉とあるので、公式にはこの日が創立日のようである。ただしそれ以前に設立されていたかのような記事も散見する。『[[人類愛善新聞]]』昭和7年8月上旬号(8月3日発行)3頁には〈七月下旬号に予告した大日本武道普及会は'''七月十八日'''を以て亀岡総本部に日本武道宣揚会として設置された〉とある。『北国夕刊新聞』7月26日号の記事や、『参陽新報』7月26日の記事(『[[壬申日記]] 7の巻』308頁に転載されている。{{ndldl|1137838/1/173}})は、会が結成されたことが過去形で報道されている。「[[大本年表]]」の昭和7年7月26日の項に〈大日本武道宣揚会創立。聖師を総裁に植芝守高を会長として8・13発足。〉と記されているが、なぜ7月26日の項に記されているのか理由がよく分からない。前述の新聞の発行日か?</ref>。総裁・[[出口王仁三郎]]、総裁補・[[出口宇知麿]]、会長・[[植芝守高]]。顧問には[[出口日出麿]]、蓮井継太郎(大日本国粋会理事)、中山博道(剣道範士)、二木謙三(医学博士)、三浦真(陸軍少将)が就任した<ref>『[[竹田別院五十年誌]]』137頁</ref> <ref>『[[真如の光]]』昭和7年11月15日号92頁〈中山博道氏、二木謙三氏、蓮井継太郎氏、三浦真氏等一流の大家名士が顧問となつて居られ〉</ref>。
昭和7年(1932年)8月13日(旧7月12日)聖師生誕祭の日に大日本武道宣揚会が発足する<ref name="hossokubi">『[[出口王仁三郎全集]] 第八巻』610頁の年表に〈八月十三日大日本武道宣揚会創立。〉とあるので、公式にはこの日が創立日のようである。ただしそれ以前に設立されていたかのような記事も散見する。『[[人類愛善新聞]]』昭和7年8月上旬号(8月3日発行)3頁には〈七月下旬号に予告した大日本武道普及会は'''七月十八日'''を以て亀岡総本部に日本武道宣揚会として設置された〉とある。『北国夕刊新聞』7月26日号の記事や、『参陽新報』7月26日の記事(『[[壬申日記]] 7の巻』308頁に転載されている。{{ndldl|1137838/1/173}})は、会が結成されたことが過去形で報道されている。「[[大本年表]]」の昭和7年7月26日の項に〈大日本武道宣揚会創立。聖師を総裁に植芝守高を会長として8・13発足。〉と記されているが、なぜ7月26日の項に記されているのか理由がよく分からない。前述の新聞の発行日か?</ref>。総裁・[[出口王仁三郎]]、総裁補・[[出口宇知麿]]、会長・[[植芝守高]]。顧問には[[出口日出麿]]、蓮井継太郎(大日本国粋会理事)、中山博道(剣道範士)、二木謙三(医学博士)、三浦真(陸軍少将)が就任した<ref>『[[竹田別院五十年誌]]』137頁</ref> <ref>『[[真如の光]]』昭和7年11月15日号92頁〈中山博道氏、二木謙三氏、蓮井継太郎氏、三浦真氏等一流の大家名士が顧問となつて居られ〉</ref>。


同年11月2日(10月30日から始まる大本大祭第四日)、[[天恩郷]]で大日本武道宣揚会の第一回総会が開催される。<ref name="OMNP">「大本年表」</ref> <ref>『[[真如の光]]』昭和7年11月15日号13頁。</ref>
7年11月2日(10月30日から始まる大本大祭第四日)、[[天恩郷]]で大日本武道宣揚会の第一回総会が開催される。<ref name="OMNP">「大本年表」</ref> <ref>『[[真如の光]]』昭和7年11月15日号13頁。</ref>


昭和8年(1933年)1月1日、会旗が制定される。会則が改訂される。<ref name="OMNP" />
昭和8年(1933年)1月1日、会旗が制定される。会則が改訂される。<ref name="OMNP" />


同年5月1日、大日本武道宣揚会の総本部が亀岡天恩郷から但馬竹田の[[愛善郷]](竹田城址)へ移る。<ref name="OMNP" />
8年5月1日、大日本武道宣揚会の総本部が亀岡天恩郷から但馬竹田の[[愛善郷]](竹田城址)へ移る。<ref name="OMNP" />


同年11月5日、綾部に道場が完成する。<ref name="OMNP" />
8年11月5日、綾部に道場が完成する。<ref name="OMNP" />


昭和10年(1935年)7月1日、植芝に代わり[[出口日出麿]]が会長に就任。植芝は「範主」として武道の指導に当たることになる。<ref name="otb50p143p618">『[[竹田別院五十年誌]]』143頁、618頁</ref> <ref name="OMNP" />
昭和10年(1935年)7月1日、植芝に代わり[[出口日出麿]]が会長に就任。植芝は「範主」として武道の指導に当たることになる。<ref name="otb50p143p618">『[[竹田別院五十年誌]]』143頁、618頁</ref> <ref name="OMNP" />
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大日本武道宣揚会では道士、宣士、助士という称号を設け<ref>会則第7条</ref>、武術の教授を行わせた。<ref>政府の外郭団体である大日本武徳会では範士、教士、錬士という称号を用いている。{{wp|大日本武徳会}}</ref>
大日本武道宣揚会では道士、宣士、助士という称号を設け<ref>会則第7条</ref>、武術の教授を行わせた。<ref>政府の外郭団体である大日本武徳会では範士、教士、錬士という称号を用いている。{{wp|大日本武徳会}}</ref>


[[天恩郷]]の仮道場での武術講習や全国各地への巡回講師の派遣などによって、大日本武道宣揚会の発足から半年の間に、支部は50ヶ所、会員は1500人となった。会員の増加により仮道場では手狭となり、新道場の建築計画が進んだ。ところが突然、王仁三郎の意向によってその計画が変更され、大日本武道宣揚会総本部と道場が竹田に移転することになった。それは竹田別院に、道場に転用できる建物が存在していたからである。<ref>『[[竹田別院五十年誌]]』138頁</ref>
[[天恩郷]]の仮道場での武術講習や全国各地への巡回講師の派遣などによって、大日本武道宣揚会の発足から半年の間に、支部は50ヶ所、会員は1500人となった。会員の増加により仮道場では手狭となり、新道場の建築計画が進んだ。ところが突然、王仁三郎の意向によってその計画が変更され、大日本武道宣揚会総本部と道場が竹田に移転することになった。それは[[竹田別院]]に、道場に転用できる建物が存在していたからである。<ref>『[[竹田別院五十年誌]]』138頁</ref>


昭和7年(1932年)8月5日、兵庫県朝来郡竹田町竹田(現・朝来市和田山町竹田)にある虎伏城(とらふすじょう。現・竹田城<ref>現在は「天空の城」として有名。</ref>)城址を所有していた竹田町から大本へ、城趾が献納された<ref>竹田での大本宣教が始まったのは昭和6年12月16日であり、すでにその頃から竹田町側から城址献納に向けた動きはあった。『[[竹田別院五十年誌]]』41~44頁・614~615頁</ref>。10月18日、王仁三郎と二代澄子は虎伏城に登り、王仁三郎は城址を「[[愛善郷]]」と命名した。<ref>『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c5227|諸運動の展開}}」</ref> <ref>昭和7年5月16日(五十年誌8頁、615頁では5月16日。七十年史では4月16日。おそらく前者が正しい)、竹田町に[[人類愛善会]]の支部が設置され、全町内400戸が会員となった。それにより虎伏城が大本に献納される話が持ち上がった。同年7月19日に出口宇知麿が竹田町へ行き町長・町議らと協議して、献納が決まった。大日本武道宣揚会設立と虎伏城献納は直接関係はないが、同じ時期に平行して話が進んでいたことになる。</ref>
昭和7年(1932年)8月5日、兵庫県朝来郡竹田町竹田(現・朝来市和田山町竹田)にある虎伏城(とらふすじょう。現・竹田城<ref>現在は「天空の城」として有名。</ref>)城址を所有していた竹田町から大本へ、城趾が献納された<ref>竹田での大本宣教が始まったのは昭和6年12月16日であり、すでにその頃から竹田町側から城址献納に向けた動きはあった。『[[竹田別院五十年誌]]』41~44頁・614~615頁</ref>。10月18日、王仁三郎と二代澄子は虎伏城に登り、王仁三郎は城址を「[[愛善郷]]」と命名した。<ref>『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c5227|諸運動の展開}}」</ref> <ref>昭和7年5月16日(五十年誌8頁、615頁では5月16日。七十年史では4月16日。おそらく前者が正しい)、竹田町に[[人類愛善会]]の支部が設置され、全町内400戸が会員となった。それにより虎伏城が大本に献納される話が持ち上がった。7年7月19日に出口宇知麿が竹田町へ行き町長・町議らと協議して、献納が決まった。大日本武道宣揚会設立と虎伏城献納は直接関係はないが、同じ時期に平行して話が進んでいたことになる。</ref>


10月18日に王仁三郎夫妻が宿泊した場所は虎伏城の麓にあり、旧石原本家と呼ばれる町一番の宏壮な邸宅だった。朝来銀行の所有になっていたが、王仁三郎の指示で大本がここを買い取り、12月24日に大本[[竹田別院]]が設置された。<ref>『[[竹田別院五十年誌]]』10頁・98~106頁。昭和7年現在の旧石原本家の平面略図が102頁にある。</ref>
10月18日に王仁三郎夫妻が宿泊した場所は虎伏城の麓にあり、旧石原本家と呼ばれる町一番の宏壮な邸宅だった。朝来銀行の所有になっていたが、王仁三郎の指示で大本がここを買い取り、12月24日に大本[[竹田別院]]が設置された。<ref>『[[竹田別院五十年誌]]』10頁・98~106頁。昭和7年現在の旧石原本家の平面略図が102頁にある。</ref>
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昭和8年(1933年)3月30日、愛善郷の地鎮祭が城址で執行された際、王仁三郎は竹田別院(旧石原本家)を検分し、「別院の建物あまり多ければ武術の道場に使用せんとす」と歌を詠んだ。天恩郷に新道場を建築する計画が進んでいたが、竹田に適した建物があったため、ここに大日本武道宣揚会の総本部と道場を移転することになった。<ref>『[[竹田別院五十年誌]]』138頁</ref>
昭和8年(1933年)3月30日、愛善郷の地鎮祭が城址で執行された際、王仁三郎は竹田別院(旧石原本家)を検分し、「別院の建物あまり多ければ武術の道場に使用せんとす」と歌を詠んだ。天恩郷に新道場を建築する計画が進んでいたが、竹田に適した建物があったため、ここに大日本武道宣揚会の総本部と道場を移転することになった。<ref>『[[竹田別院五十年誌]]』138頁</ref>


同年5月1日に竹田に移転した後も大日本武道宣揚会の活動は盛況で、常時50~60人がここで寝泊まりして「武農一如」の道場生活を送った<ref>植芝吉祥丸『[[植芝盛平伝]]』221頁</ref>。移転後半年の間に本部と支部で87回もの講習会を行い、受講者はのべ2278人にのぼり、同年12月末には支部129ヶ所、会員2488人へと拡大した<ref>『[[竹田別院五十年誌]]』141頁</ref>。
8年5月1日に竹田に移転した後も大日本武道宣揚会の活動は盛況で、常時50~60人がここで寝泊まりして「武農一如」の道場生活を送った<ref>植芝吉祥丸『[[植芝盛平伝]]』221頁</ref>。移転後半年の間に本部と支部で87回もの講習会を行い、受講者はのべ2278人にのぼり、8年12月末には支部129ヶ所、会員2488人へと拡大した<ref>『[[竹田別院五十年誌]]』141頁</ref>。


また要請があれば、各地の憲兵隊・海軍大学・警察・在郷軍人会・中学校などでも講習会を開いて指導にあたった<ref name="B195402c5431">『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c5431|諸団体の活動}}」</ref>。
また要請があれば、各地の憲兵隊・海軍大学・警察・在郷軍人会・中学校などでも講習会を開いて指導にあたった<ref name="B195402c5431">『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c5431|諸団体の活動}}」</ref>。
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昭和10年7月1日、役員人事が更迭され、会長には植芝の代わりに出口日出麿が就任し、植芝は「範主」として武道の指導にあたることになった<ref name="otb50p143p618" />。これによって第二次大本事件の際、植芝は警察に事情聴取はされたものの、検挙されることはなかった。〈植芝氏は会長職をはなれていたこと、弟子のなかに、官憲や上層部関係者がいたことが幸いしたものと思われる〉<ref>『[[竹田別院五十年誌]]』164~165頁</ref>。
昭和10年7月1日、役員人事が更迭され、会長には植芝の代わりに出口日出麿が就任し、植芝は「範主」として武道の指導にあたることになった<ref name="otb50p143p618" />。これによって第二次大本事件の際、植芝は警察に事情聴取はされたものの、検挙されることはなかった。〈植芝氏は会長職をはなれていたこと、弟子のなかに、官憲や上層部関係者がいたことが幸いしたものと思われる〉<ref>『[[竹田別院五十年誌]]』164~165頁</ref>。


同年10月31日(27日から始まった大本大祭の5日目)[[天恩郷]]で大日本武道宣揚会主催の奉納武道大会が約3時間半に亘り盛大に開催され、植芝範主による合気武術の解説・実演や、剣道・気合術・杖術の試合などが行われた<ref>『[[真如の光]]』昭和10年11月17・25日合併号15~17頁</ref> <ref name="B195402c5431" /> <ref>『[[竹田別院五十年誌]]』144頁</ref> <ref>この日、天恩郷の[[明光殿]]にて第一回[[歌祭]]が開催されている。</ref>。(これが大日本武道宣揚会の対外的活動の最後になったようである<ref>広瀬浩二郎『[[人間解放の福祉論]]』149頁の最後の行</ref>)
10年10月31日(27日から始まった大本大祭の5日目)[[天恩郷]]で大日本武道宣揚会主催の奉納武道大会が約3時間半に亘り盛大に開催され、植芝範主による合気武術の解説・実演や、剣道・気合術・杖術の試合などが行われた<ref>『[[真如の光]]』昭和10年11月17・25日合併号15~17頁</ref> <ref name="B195402c5431" /> <ref>『[[竹田別院五十年誌]]』144頁</ref> <ref>この日、天恩郷の[[明光殿]]にて第一回[[歌祭]]が開催されている。</ref>。(これが大日本武道宣揚会の対外的活動の最後になったようである<ref>広瀬浩二郎『[[人間解放の福祉論]]』149頁の最後の行</ref>)


昭和11年(1936年)3月、当局の命令により大日本武道宣揚会は解散した。だが植芝盛平の活動は進展し、昭和15年4月には「財団法人皇武会」となり、昭和23年2には「財団法人合気会」と改称して合気道を大成させて行く。
昭和11年(1936年)3月、当局の命令により大日本武道宣揚会は解散した。だが植芝盛平の活動は進展し、昭和15年4月には「財団法人皇武会」となり、昭和23年2には「財団法人合気会」と改称して合気道を大成させて行く。