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+ | [[ファイル:綾部の神苑の一部(絵葉書).jpg|thumb|綾部の神苑(現・梅松苑)の一部。撮影時期不明(戦前)。[[竜宮海]]の「みろく橋」の手前だと思われる。[[五六七殿]]に至る階段が見える。]] | ||
+ | [[ファイル:綾部の神苑の受付(絵葉書).jpg|thumb|綾部の神苑(現・梅松苑)の受付(左の建物)。撮影時期不明(戦前)。]] | ||
− | + | '''梅松苑'''(ばいしょうえん)は、[[亀岡]]の[[天恩郷]]と並ぶ[[大本]]の[[二大聖地]]の一つで、祭祀の拠点。京都府[[綾部]]市(旧・何鹿郡綾部町)にあり、出口直開祖が住んでいた家(元屋敷)を基点に造営された、大本の発祥地である。 | |
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+ | 梅松苑と命名されたのは昭和20年(1945年)12月であり、それまでは固有名詞はなく、単に「綾部の大本」「綾部の神苑」等と呼ばれていた。 | ||
綾部の聖地は「[[天国]]」を、[[天恩郷|亀岡の聖地]]は「[[霊国]]」を地上に移写したものとして造営された。<ref>『出口王仁三郎著作集 第3巻』「{{obc|B195303c307|庭園}}」、初出『月明』昭和2年5月号「言林」の「庭園」</ref> <ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c5111|みろく大祭}}」</ref> | 綾部の聖地は「[[天国]]」を、[[天恩郷|亀岡の聖地]]は「[[霊国]]」を地上に移写したものとして造営された。<ref>『出口王仁三郎著作集 第3巻』「{{obc|B195303c307|庭園}}」、初出『月明』昭和2年5月号「言林」の「庭園」</ref> <ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c5111|みろく大祭}}」</ref> | ||
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+ | 現在は大本本部綾部祭祀センターが置かれている。 | ||
== 造営 == | == 造営 == | ||
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[[王仁三郎]]は明治38年頃から綾部を出て、神社や他の教会で働いたり、大本の宣教活動をしていたが、明治41年12月に[[帰綾]]して教団づくりに専念し出す。<ref>『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195401c2112|王仁三郎の帰綾}}」</ref> | [[王仁三郎]]は明治38年頃から綾部を出て、神社や他の教会で働いたり、大本の宣教活動をしていたが、明治41年12月に[[帰綾]]して教団づくりに専念し出す。<ref>『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195401c2112|王仁三郎の帰綾}}」</ref> | ||
− | 41年6月に「雑のお宮でよいから早くしてもらいたい」とお宮造りを急がす[[筆先]] | + | 41年6月に「雑のお宮でよいから早くしてもらいたい」とお宮造りを急がす[[筆先]]が出たため、竜門館の隣接地360坪を買い入れ、同年6月23日に地鎮祭を行う。12月に王仁三郎が帰綾してからにわかに広前が活気づき、手狭になったので、神殿建築の話が持ち上がり、明治42年(1909年)旧1月に神殿新築が決定され、11月22日に落成式と遷宮式が行われた。<ref>『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195401c2114|造営と宣教}}」</ref> <ref name="oomoto_nanpyo">「大本年表」</ref> (この綾部の最初の神殿は後に「[[旧本殿]]」と呼ばれるようになる) |
この神殿の建設を皮切りに、次々と近隣の土地を買収し、綾部の神苑が造営されて行く。 | この神殿の建設を皮切りに、次々と近隣の土地を買収し、綾部の神苑が造営されて行く。 | ||
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+ | [[ファイル:工芸課及び神生館(絵葉書).jpg|thumb|工芸課及び神生館(宿舎)。撮影時期不明(戦前)。]] | ||
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昭和10年の[[第二次大本事件]]までに造られた主な建造物は次の通りである。 | 昭和10年の[[第二次大本事件]]までに造られた主な建造物は次の通りである。 | ||
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− | * [[竜門館]] | + | * [[竜門館]]:明治33年(1900年)11月に遷座。 |
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+ | * [[旧本殿]]:明治42年(1909年)11月完成。 | ||
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* [[本宮山]] | * [[本宮山]] | ||
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* [[教碑]] | * [[教碑]] | ||
* [[神声碑]] | * [[神声碑]] | ||
* [[歌碑 (本宮山)]] | * [[歌碑 (本宮山)]] | ||
− | * [[長生殿]] | + | * [[長生殿 (旧)]]:昭和3年(1928年)に起工するが未完成。 |
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* [[三葉松]] | * [[三葉松]] | ||
* [[洗心亭]] | * [[洗心亭]] | ||
− | * [[掬水荘]] | + | * [[掬水荘 (旧)]]:昭和2年(1927年)5月完成。 |
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=== 神苑の外 === | === 神苑の外 === | ||
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第二次大戦後、和解によって綾部町から土地が返還されることになり、昭和20年11月15日に土地移転の登記が完了した。無条件での返還だったが、大本側から綾部町に体育館の敷地を寄付し、町からは[[武徳殿]](後に[[彰徳殿]]と改名)と弓場の建物(後に[[要荘]]の一部となる)を寄付することになった。<ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c6523|土地返還訴訟の解決}}」</ref> | 第二次大戦後、和解によって綾部町から土地が返還されることになり、昭和20年11月15日に土地移転の登記が完了した。無条件での返還だったが、大本側から綾部町に体育館の敷地を寄付し、町からは[[武徳殿]](後に[[彰徳殿]]と改名)と弓場の建物(後に[[要荘]]の一部となる)を寄付することになった。<ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c6523|土地返還訴訟の解決}}」</ref> | ||
− | 昭和20年12月8日、綾部の彰徳殿で[[第二次大本事件解決奉告祭]]が執り行われ、今後の大本の方針として「[[愛善苑]] | + | 昭和20年12月8日、綾部の彰徳殿で[[第二次大本事件解決奉告祭]]が執り行われ、今後の大本の方針として「[[愛善苑]]」という名で新発足することが発表された。また綾部の神苑を「梅松苑」、王仁三郎夫妻が起居する臨川荘を「[[山水荘]]」、武徳殿を「[[彰徳殿]]」と命名したことが発表された。<ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c7121|新生のまつり}}」</ref> |
再建にあたっては、まず[[本宮山]](鶴山)の山上で、破壊された[[長生殿]]の基礎の上に「[[月山不二]]」が築かれた(昭和21年6月完成)。その後、彰徳殿に神床を新設(昭和22年2月)、旧弓場を改修して祖霊社を復活(昭和22年4月)など、神苑を整備して行った。<ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c7221|本部と地方のうごき}}」</ref> | 再建にあたっては、まず[[本宮山]](鶴山)の山上で、破壊された[[長生殿]]の基礎の上に「[[月山不二]]」が築かれた(昭和21年6月完成)。その後、彰徳殿に神床を新設(昭和22年2月)、旧弓場を改修して祖霊社を復活(昭和22年4月)など、神苑を整備して行った。<ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c7221|本部と地方のうごき}}」</ref> | ||
== 主な建造物(戦後) == | == 主な建造物(戦後) == | ||
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第二次大戦後に造られた主な建造物は次の通りである。 | 第二次大戦後に造られた主な建造物は次の通りである。 | ||
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+ | 梅松苑で撮影した映画には、次のものがある。(天恩郷で撮影した映画は→「[[天恩郷#映画撮影]]」) | ||
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+ | * 『丹波の綾部』:大正9年(1920年)11月19日、[[小山内薫]](演出家、劇作家)が松竹キネマの活動写真撮影隊と共に参綾し、王仁三郎を始め神苑や天王平の風物を撮影。東京の明治座で上映した。<ref>「[[大本年表]]」</ref> <ref>『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c2343|社会の反応}}」487頁</ref> <ref>『[[巨人出口王仁三郎]]』125頁</ref> | ||
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2024年3月11日 (月) 04:55時点における最新版
梅松苑(ばいしょうえん)は、亀岡の天恩郷と並ぶ大本の二大聖地の一つで、祭祀の拠点。京都府綾部市(旧・何鹿郡綾部町)にあり、出口直開祖が住んでいた家(元屋敷)を基点に造営された、大本の発祥地である。
梅松苑と命名されたのは昭和20年(1945年)12月であり、それまでは固有名詞はなく、単に「綾部の大本」「綾部の神苑」等と呼ばれていた。
綾部の聖地は「天国」を、亀岡の聖地は「霊国」を地上に移写したものとして造営された。[1] [2]
現在は大本本部綾部祭祀センターが置かれている。
目次
造営
出口直開祖が明治27年(1894年)10月に艮の金神を初めて祭ってから(ただし金光大神と併祭)広前は綾部町内を点々と移っていたが、明治32年(1899年)12月に大島景僕の土地家屋(元屋敷の隣り)を買い受け、33年11月に広前を遷す。この家は筆先によって「竜門館」と名付けられた(竜宮館とも呼ぶ)。[3]
王仁三郎は明治38年頃から綾部を出て、神社や他の教会で働いたり、大本の宣教活動をしていたが、明治41年12月に帰綾して教団づくりに専念し出す。[4]
41年6月に「雑のお宮でよいから早くしてもらいたい」とお宮造りを急がす筆先が出たため、竜門館の隣接地360坪を買い入れ、同年6月23日に地鎮祭を行う。12月に王仁三郎が帰綾してからにわかに広前が活気づき、手狭になったので、神殿建築の話が持ち上がり、明治42年(1909年)旧1月に神殿新築が決定され、11月22日に落成式と遷宮式が行われた。[5] [6] (この綾部の最初の神殿は後に「旧本殿」と呼ばれるようになる)
この神殿の建設を皮切りに、次々と近隣の土地を買収し、綾部の神苑が造営されて行く。
元屋敷は明治45年(1912年)7月に、本宮山は大正8年(1919年)2月に買収した。
主な建造物(戦前)
昭和10年の第二次大本事件までに造られた主な建造物は次の通りである。
- 元屋敷
- 竜門館:明治33年(1900年)11月に遷座。
- 最初の広前:竜門館の東側に明治42年(1909年)5月に造築された大広間のこと。
- 旧本殿:明治42年(1909年)11月完成。
- 金明水
- 銀明水
- 西門
- 西石の宮:大正2年(1913年)11月完成。
- 統務閣:大正3年(1914年)9月完成。
- 金竜殿:大正3年(1914年)9月完成。
- 東石の宮:大正6年(1917年)4月完成。
- 回金神社
- 教祖殿:大正8年(1919年)2月完成。
- 教主殿:大正8年(1919年)9月完成。
- 黄金閣(言霊閣):大正8年(1919年)11月完成。
- 錦水亭:完成年不明。
- 鉱泉
- 金竜海
- 大八洲神社
- 六合大神社
- 塩釜神社
- 冠島神社
- 沓島神社
- 玉治神社
- 金竜神社
- 三社大神
- 護国神社
- 御柱神社
- 五六七殿:大正9年(1920年)2月完成。
- 至聖殿:大正9年(1920年)9月完成。
- 本宮山
- 綾機神社
- 穹天閣:昭和5年(1930年)4月完成。
- 三六亭 (綾部):昭和7年(1932年)1月完成。
- 工芸館
- 教碑
- 神声碑
- 歌碑 (本宮山)
- 長生殿 (旧):昭和3年(1928年)に起工するが未完成。
- 勝景殿
- 三葉松
- 洗心亭
- 掬水荘 (旧):昭和2年(1927年)5月完成。
- 王仁閣
- 神光社
- 神生館(宿舎)
神苑の外
破壊と再建
昭和10年(1935年)12月8日、第二次大本事件が勃発する。翌11年5月以降、当局によって綾部の神苑は全て破壊された。
土地は大部分が出口澄子名義だったが、不法に売却され、昭和11年3月20日に綾部町に移転登記された。2万5185坪が3676円22銭(現在の貨幣価値で約700万円前後[7])で売却されたが、当時の地価の百分の一にも及ばない不当に安い値段だった。[8]
売却後の土地は、何鹿郡設のグランドとなったが、昭和15年6月に土地返還請求の提訴がなされた。[9]
第二次大戦後、和解によって綾部町から土地が返還されることになり、昭和20年11月15日に土地移転の登記が完了した。無条件での返還だったが、大本側から綾部町に体育館の敷地を寄付し、町からは武徳殿(後に彰徳殿と改名)と弓場の建物(後に要荘の一部となる)を寄付することになった。[10]
昭和20年12月8日、綾部の彰徳殿で第二次大本事件解決奉告祭が執り行われ、今後の大本の方針として「愛善苑」という名で新発足することが発表された。また綾部の神苑を「梅松苑」、王仁三郎夫妻が起居する臨川荘を「山水荘」、武徳殿を「彰徳殿」と命名したことが発表された。[11]
再建にあたっては、まず本宮山(鶴山)の山上で、破壊された長生殿の基礎の上に「月山不二」が築かれた(昭和21年6月完成)。その後、彰徳殿に神床を新設(昭和22年2月)、旧弓場を改修して祖霊社を復活(昭和22年4月)など、神苑を整備して行った。[12]
主な建造物(戦後)
第二次大戦後に造られた主な建造物は次の通りである。
- 彰徳殿
- 要荘
- 月山不二:昭和21年(1946年)6月完成。
- 本宮山
- 神声碑
- 教碑
- 二代教主歌碑
- 機織場
- 長命水
- 鉱泉
- 金竜海
- 塩釜神社
- 冠島神社
- 沓島神社
- 六合大神社
- 大八洲神社
- つるやま工房
- 春秋荘
- 掬水荘 (新):昭和30年(1955年)4月に山水荘を移築して改名。
- 神声館
- みろく殿:昭和28年(1953年)4月完成。
- 金明水
- 銀明水
- 元屋敷
- 紅梅寮
- 若松寮
- 松香館
- 三丹会館
- 緑寿館:昭和54年(1979年)5月完成。
- 長生殿 (新):平成4年(1992年)11月完成。
- 遊亀亭
- 鶴山居
- 木の花庵
- 梅松苑碑
- 榎
- 玉水の泉記念碑
神苑の外
ギャラリー(戦前)
ギャラリー(戦後)
長生殿。2014年3月撮影。
みろく殿。2014年3月撮影。
金明水。2014年3月撮影。
聖ヨハネ大聖堂献石記念碑。2014年3月撮影。
金竜海。2014年4月撮影。
金竜海。2014年4月撮影。
金竜海。2014年4月撮影。
金竜海。2014年4月撮影。
略年表
(作成中)
映画撮影
梅松苑で撮影した映画には、次のものがある。(天恩郷で撮影した映画は→「天恩郷#映画撮影」)
- 『丹波の綾部』:大正9年(1920年)11月19日、小山内薫(演出家、劇作家)が松竹キネマの活動写真撮影隊と共に参綾し、王仁三郎を始め神苑や天王平の風物を撮影。東京の明治座で上映した。[13] [14] [15]
脚注
- ↑ 『出口王仁三郎著作集 第3巻』「庭園#」、初出『月明』昭和2年5月号「言林」の「庭園」
- ↑ 『大本七十年史 下巻』「みろく大祭#」
- ↑ 『大本七十年史 上巻』「金明霊学会#」
- ↑ 『大本七十年史 上巻』「王仁三郎の帰綾#」
- ↑ 『大本七十年史 上巻』「造営と宣教#」
- ↑ 「大本年表」
- ↑ 「日本円貨幣価値計算機」で計算すると、1936年の3676円は2017年の約623万円(GDP)から約732万円(CPI)に相当する。
- ↑ 『大本七十年史 下巻』「土地の不法処分#」
- ↑ 『大本七十年史 下巻』「土地返還請求の提訴#」
- ↑ 『大本七十年史 下巻』「土地返還訴訟の解決#」
- ↑ 『大本七十年史 下巻』「新生のまつり#」
- ↑ 『大本七十年史 下巻』「本部と地方のうごき#」
- ↑ 「大本年表」
- ↑ 『大本七十年史 上巻』「社会の反応#」487頁
- ↑ 『巨人出口王仁三郎』125頁
関連項目
外部リンク
- 大本の聖地(宗教法人大本の公式サイト)