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* [[小山内匠]](こやま たくみ)大正2年(1913年)生まれ、新聞記者10余年の後、信仰生活に入る。『[[霊魂と霊界の話]]』p215著者略歴 富山新聞論説室長 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1692760/972 | * [[小山内匠]](こやま たくみ)大正2年(1913年)生まれ、新聞記者10余年の後、信仰生活に入る。『[[霊魂と霊界の話]]』p215著者略歴 富山新聞論説室長 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1692760/972 | ||
* [[高木鉄男]] 明治製糖の専務 [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1258017/130 明治製糖株式会社三十年史p86-87] | * [[高木鉄男]] 明治製糖の専務 [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1258017/130 明治製糖株式会社三十年史p86-87] | ||
== 上田喜三郎を襲撃したのは誰か == | |||
高熊山入山前夜つまり明治31年2月8日、浄瑠璃温習会中の上田喜三郎を襲撃した者について諸説ある。 | |||
(1) 霊界物語{{rm|37|2|葱節}}によると、それは「若錦」である。〈其時宮相撲をとつて居た若錦と云ふ男を先頭に、侠客の小牛、留公、与三公、茂一の五人連れ、矢庭に演壇に上り、有無を云はせず瑞月を担いで附近の桑畑の中へ連れ行き、打つ、蹴る、殴るの大乱痴気騒ぎを始めた。〉 | |||
(2) しかし第二次大本事件の地裁公判で王仁三郎は、それは侠客の「河内屋」だと述べている。〈処が三日程したら私が浄瑠璃を語つて、次に『現れ出でたる武智光秀』と言つて居る時に、ほんまに河内屋が現れて来て、自分を表へひつ張り出した。 家の前の桑畑へ連れて行つて、私を殴つた。〉〔{{obc|B195503c220201|地裁公判速記録(1)}}〕<ref>この王仁三郎の返答には疑問もある。〈三十一年の四月、旧の四月の八日頃だと覚えて居りますが〉と言っているが、それでは高熊山修業の後ということになる。王仁三郎の記憶違い・言い間違いか? それとも記録の誤字か?</ref> | |||
この公判記録の中に「若錦」の名は出ない。 | |||
霊界物語によると「河内屋(河内屋勘吉)」と「若錦」は別人である。{{rm|37|5|松の下}}:〈斯う云ふ事が何回も重なり、河内屋や若錦の身内から敵視されて、八九回も大喧嘩が始まり、何時も喜楽は袋叩きにやられ勝であつた。〉 | |||
(3) 明治37年に著された本教創世記{{obc|B195301c18|第12章}}に、高熊山修業後の、人を集めて幽斎修業をしていた時期に、小幡神社にて「若錦」こと「八田弥三郎」に襲撃されたというエピソードがある。修業前夜に襲撃されてから数ヶ月しか経っていないはずだが、〈彼らが余を怨んで襲撃するのは合点が行かぬ〉など、記述に不審な点がある。 | |||
{{obc|B195301c09|第3章}}には〈このたびは神の御告げに従いて、'''深夜に一週間、高熊山と云う奥山に通い'''、鎮魂と帰神術とを一心不乱に勉強し、ついに神人感合の妙境に達することを得たるなり。〉と書かれている。つまり、霊界物語では一週間山に籠っていたことになっているが、本教創世記では、通っていたというので、事実が相違する。 | |||
== 脚注 == | == 脚注 == | ||