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== 大正 == | == 大正 == | ||
* [[中村古峡]]「連載 余の観たる大本教」、『東亜の光』大正9年(1920年)3月号~、東亜協会、{{obn|2008}} | * [[中村古峡]]「連載 余の観たる大本教」、『東亜の光』大正9年(1920年)3月号~、東亜協会、{{obn|2008}} | ||
* 高橋卯三郎(牧師)「大正の大迷信大本教を評す 浅野和三郎氏著「[[大正維新の真相]]」を読みて」全5回、『新人』(キリスト教系の雑誌)大正9年(1920年)6~10月号、新人社 | |||
** 「大正の大迷信大本教を評す(一)」、同年6月号、54~56頁、{{obn|2257}}、{{ndldl|1510387/1/33}} | |||
** 「大正の大迷信大本教を評す(二)」、同年7月号、22~44頁、{{obn|2258}}、{{ndldl|1510388/1/22}} | |||
** 「大正の大迷信大本教を評す(三)」、同年8月号、37~47頁、{{obn|2259}}、{{ndldl|1510389/1/24}} | |||
** 「大正の大迷信大本教を評す(四)」、同年9月号、42~50頁、{{obn|2260}}、{{ndldl|1510390/1/27}} | |||
** 「大正の大迷信大本教を評す(完)」、同年10月号、41~46頁、{{obn|2261}}、{{ndldl|1510391/1/26}} | |||
* [[大山郁夫]]「社会問題として見たる最近に於ける迷信流行の傾向」、『中央公論』大正9年(1920年)9月号、p63、中央公論社、{{obn|2001}} | * [[大山郁夫]]「社会問題として見たる最近に於ける迷信流行の傾向」、『中央公論』大正9年(1920年)9月号、p63、中央公論社、{{obn|2001}} | ||
* [[境野黄洋]](東洋大学長)「知識階級と大本教」、『太陽』大正9年(1920年)10月号、p117~118、博文館、{{obn|2002}} | * [[境野黄洋]](東洋大学長)「知識階級と大本教」、『太陽』大正9年(1920年)10月号、p117~118、博文館、{{obn|2002}} | ||
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* [[北野博美]]「大本教を信ずる女」、『女の世界』大正9年(1920年)11月号、p100、{{obn|2007}} | * [[北野博美]]「大本教を信ずる女」、『女の世界』大正9年(1920年)11月号、p100、{{obn|2007}} | ||
* 『[[変態心理]]』第6巻第6号(大正9年(1920年)12月号)大本教追撃号、主幹・[[中村古峡]]、発行・日本精神医学会 | * 『[[変態心理]]』第6巻第6号(大正9年(1920年)12月号)大本教追撃号、主幹・[[中村古峡]]、発行・日本精神医学会 | ||
** | ** 662頁:一記者「宮飼氏の一文を発展するに就いて」、{{obn|2249}} | ||
** 673頁:[[宮飼陶羊]]<ref>[[宮飼陶羊]]は『[[神霊界]]』大正6年(1917年)4月号~9月号に連載された「桑の葉の茂る頃」の著者・[[宮飼慶之]]と同一人物のようである。</ref> | ** 673頁:[[宮飼陶羊]]<ref>[[宮飼陶羊]]は『[[神霊界]]』大正6年(1917年)4月号~9月号に連載された「桑の葉の茂る頃」の著者・[[宮飼慶之]]と同一人物のようである。</ref>「余が綾部生活の二年」、{{obn|2250}} | ||
** | ** 725頁:浅羽由三郎「大本教に欺かれた告白」、{{obn|2251}} | ||
** | ** 730頁:「大本教の解剖と西園寺陶庵公」、{{obn|2252}} | ||
** | ** 731頁:高野正明「出口王仁さんと僕」、{{obn|2253}} | ||
** | ** 738頁:白楊生「ペンのしづく ──本誌大本教論の無責任なる受売と沢田撫松氏の愚論」、{{obn|2254}} | ||
** | ** 740頁:真眼生「大正日々新聞を笑ふ ──中村主幹に代りて浅野文学士に与ふ」、{{obn|2255}} | ||
** | ** 756頁:一記者「お筆先の偽文を草案した人」、{{obn|2256}} | ||
* [[今村力三郎]]「大本教の不敬事件と当局者の責任」、『中央公論』大正10年(1921年)6月号、p47~50、中央公論社、{{ | * [[今村力三郎]]「大本教の不敬事件と当局者の責任」、『中央公論』大正10年(1921年)6月号、p47~50、中央公論社、{{ndldl|10232073}}、{{obn|2009}}、{{obc|Z9011|霊界物語ネット}} | ||
* [[吉野作造]]「大本教神殿の取毀ち」、『中央公論』大正10年(1921年)11月号、p180-181、中央公論社、{{ | * [[吉野作造]]「大本教神殿の取毀ち」、『中央公論』大正10年(1921年)11月号、p180-181、中央公論社、{{ndldl|10232079}}、{{obn|2222}} | ||
* [[川端康成]]「湯ガ島温泉」、『文藝春秋』大正14年(1925年)3月号、p7-9、{{obn|1941}} →単行本『伊豆の旅』(1954年、中央公論社)、中公文庫『伊豆の旅』(1981年)に収録 →「[[湯本館#川端康成]]」参照 | * [[川端康成]]「湯ガ島温泉」、『文藝春秋』大正14年(1925年)3月号、p7-9、{{obn|1941}} →単行本『伊豆の旅』(1954年、中央公論社)、中公文庫『伊豆の旅』(1981年)に収録 →「[[湯本館#川端康成]]」参照 | ||
* 日本心霊学会(人文書院の前身。明治末に精神療法団体として設立。参考:[https://www.jimbunshoin.co.jp/book/b612441.html?srsltid=AfmBOopl_OFTNlUNdxAgHlGJQV16PoWL-5JRw3Cb_-Y-o5oeQzCGYF8f 「日本心霊学会」研究])機関誌『日本心霊』に大本関連記事が十数件ある。「[https://j-dac.jp/infolib/meta_pub/G0000022shakaibunka 社会文化史データベース内「日本心霊」デジタルアーカイブ検索ページ]」で検索すると記事見出しが表示される(本文閲覧は登録ユーザーのみ)。 | * 日本心霊学会(人文書院の前身。明治末に精神療法団体として設立。参考:[https://www.jimbunshoin.co.jp/book/b612441.html?srsltid=AfmBOopl_OFTNlUNdxAgHlGJQV16PoWL-5JRw3Cb_-Y-o5oeQzCGYF8f 「日本心霊学会」研究])機関誌『日本心霊』に大本関連記事が十数件ある。「[https://j-dac.jp/infolib/meta_pub/G0000022shakaibunka 社会文化史データベース内「日本心霊」デジタルアーカイブ検索ページ]」で検索すると記事見出しが表示される(本文閲覧は登録ユーザーのみ)。 | ||
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* 「⦿の家(まことのいえ) 世界連邦の建設をめざす<新宗教の“生き神さま”は語る(6)>」、『週刊大衆』昭和50年(1975年)1月23日号、p38、双葉社、{{obn|2096}} | * 「⦿の家(まことのいえ) 世界連邦の建設をめざす<新宗教の“生き神さま”は語る(6)>」、『週刊大衆』昭和50年(1975年)1月23日号、p38、双葉社、{{obn|2096}} | ||
* 「紀卍字会「内修・外慈」を説く不思議な修養団<新宗教の“生き神さま”は語る(13)>」、『週刊大衆』昭和50年(1975年)3月13日号、p126、双葉社、{{obn|2097}} | * 「紀卍字会「内修・外慈」を説く不思議な修養団<新宗教の“生き神さま”は語る(13)>」、『週刊大衆』昭和50年(1975年)3月13日号、p126、双葉社、{{obn|2097}} | ||
* [[宮田登]]「大本教とミロク──ミロク十年辰の年」、和歌森太郎先生還暦記念論文集編集委員会 編『明治国家の展開と民衆生活』449-469頁、昭和50年(1975年)6月13日、弘文堂、{{ | * [[宮田登]]「大本教とミロク──ミロク十年辰の年」、和歌森太郎先生還暦記念論文集編集委員会 編『明治国家の展開と民衆生活』449-469頁、昭和50年(1975年)6月13日、弘文堂、{{ndldl|12228250/1/231}}、{{obn|2248}}、『[[ミロク信仰の研究]]』第六章「大本教とミロク」とほぼ同じ内容のようである | ||
* [[北條明直]]「王仁三郎の茶わん」、『月刊ペン』昭和50年(1975年)9月号、p105、月刊ペン社、{{obn|2098}} | * [[北條明直]]「王仁三郎の茶わん」、『月刊ペン』昭和50年(1975年)9月号、p105、月刊ペン社、{{obn|2098}} | ||
* [[出口栄二]]「理論の折り目をつけよう」、『朝日ジャーナル』昭和50年(1975年)10月3日号〔17巻43号〕、p22、朝日新聞社、{{obn|2099}} | * [[出口栄二]]「理論の折り目をつけよう」、『朝日ジャーナル』昭和50年(1975年)10月3日号〔17巻43号〕、p22、朝日新聞社、{{obn|2099}} | ||