「大正日日新聞社」の版間の差分

 
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* 表記ゆれ:大正日々新聞社
* 表記ゆれ:大正日々新聞社
* 霊界物語にも何度か名前が出る。初出:{{rm09|2|0003|総説}}
* 霊界物語にも何度か名前が出る。初出:{{rm09|2|0003|総説}}
* 社屋は二階建ての洋館である。現在「HEP NAVIO」(旧・ナビオ阪急)が建っている場所に社屋があったようである。当時の住所は「大阪市北区北野角田町333番地」<ref>『新聞総覽 大正10年版』日本電報通信社、148頁、{{ndldl|11619538/1/196}}</ref>。(住所と、実際に社屋が建っていた位置について疑義がある→「[[トーク:大正日日新聞社]]」)
* 社屋は二階建ての洋館である。現在「HEP NAVIO」(旧・ナビオ阪急)が建っている場所に社屋があったようである。当時の住所は「大阪市北区北野角田町333番地」<ref>『新聞総覽 大正10年版』日本電報通信社、148頁、{{ndldl|11619538/1/196}}</ref>。<ref>住所と、実際に社屋が建っていた位置について疑義がある→「[[トーク:大正日日新聞社]]」</ref>


== 略史 ==
== 略史 ==
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大正日日新聞社は大正11年7月15日<ref name="t110713" />に[[床次正広]]に譲られ、大本による直接経営は終わった。しかし会社の所有権は王仁三郎が持っていたようである。床次は半年ほどで経営を投げ出した<ref>『[[壬申日記]] 4の巻』[https://dl.ndl.go.jp/pid/1137801/1/85?keyword=%E5%BA%8A%E6%AC%A1%E6%AD%A3%E5%BA%83 141頁]、[https://dl.ndl.go.jp/pid/1137801/1/119?keyword=%E5%BA%8A%E6%AC%A1%E6%AD%A3%E5%BA%83 196頁]</ref>。
大正日日新聞社は大正11年7月15日<ref name="t110713" />に[[床次正広]]に譲られ、大本による直接経営は終わった。しかし会社の所有権は王仁三郎が持っていたようである。床次は半年ほどで経営を投げ出した<ref>『[[壬申日記]] 4の巻』[https://dl.ndl.go.jp/pid/1137801/1/85?keyword=%E5%BA%8A%E6%AC%A1%E6%AD%A3%E5%BA%83 141頁]、[https://dl.ndl.go.jp/pid/1137801/1/119?keyword=%E5%BA%8A%E6%AC%A1%E6%AD%A3%E5%BA%83 196頁]</ref>。


大正12年(1923年)3月1日、王仁三郎は会社の一切の権限を[[池沢原治郎]]に委任する。池沢は懇意にしていた[[米田誠夫]](米田錦城)に、新聞発行の名義や設備を有償で貸し出した。米田によって新聞は発行を続けたが、米田は契約を守らず、毎月払うはずの賃貸料を1回しか支払わなかった。
大正12年(1923年)3月1日、王仁三郎は会社の一切の権限を[[池沢原治郎]]に委任する。池沢は懇意にしていた[[米田誠夫]](米田錦城)に、新聞発行の名義や設備を有償で貸し出した。米田によって新聞は発行を続けたが、米田は契約を守らず、毎月払うはずの賃貸料を1回しか支払わなかった。<ref>この間の経緯については異説もある。米田誠夫が『夕刊大正日日新聞』を発行したことを報道・糾弾した記事が、『大正日日新聞』昭和7年(1932年)4月18日付に掲載され、その記事が『壬申日記 4の巻』に転載されている。その記事では、同社の経営者は、'''池沢→床次→米田'''と移り変わったように書かれている。大本年表や七十年史では、'''床次→池沢→米田'''である。</ref>


昭和7年(1932年)2月16日、王仁三郎は池沢・米田と手を切り、[[上野音次郎]]([[上野公園]])に会社の権限を委任した。
昭和7年(1932年)2月16日、王仁三郎は池沢・米田と手を切り、[[上野音次郎]]([[上野公園]])に会社の権限を委任した。
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[北国夕刊新聞]]
* [[北国夕刊新聞]]:大正10年(1921年)4月創刊。『大正日日新聞』の添付紙だった。<ref>『[[北国新聞社六十年小史]]』27頁、{{ndldl|2999974/1/35}}</ref>
* [[丹州時報]]
* [[丹州時報]]
* [[東京毎夕新聞]]
* [[東京毎夕新聞]]