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* 黄泉島は地震により毎日20~30間(40~50メートル)ずつ地面が沈んで行った。<ref>{{rm|12|27|航空船||a090|a093}}:(丙のセリフ)「黄泉島はこのごろ大変な地震で、日々二三十間づつ地面が沈没しかかつて居るやうですな。人の噂に依れば、もう六分通り沈むで仕舞つたさうですよ」</ref>
* 黄泉島は地震により毎日20~30間(40~50メートル)ずつ地面が沈んで行った。<ref>{{rm|12|27|航空船||a090|a093}}:(丙のセリフ)「黄泉島はこのごろ大変な地震で、日々二三十間づつ地面が沈没しかかつて居るやうですな。人の噂に依れば、もう六分通り沈むで仕舞つたさうですよ」</ref>
* [[祝部神]]は、黄泉島が沈没すべき理由として「[[曲津神]]の棲む黄泉島はどうしても、海中に沈めてしまわねばならぬのだ」と語っている。<ref>{{rm|12|27|航空船||a294|a295}}:「曲津神の棲む黄泉島はどうしても、海中に沈めてしまはねばならぬのだ」</ref>
* [[祝部神]]は、黄泉島が沈没すべき理由として「[[曲津神]]の棲む黄泉島はどうしても、海中に沈めてしまわねばならぬのだ」と語っている。<ref>{{rm|12|27|航空船||a294|a295}}:「曲津神の棲む黄泉島はどうしても、海中に沈めてしまはねばならぬのだ」</ref>
* {{rm|1|21|大地の修理固成}}にも黄泉島沈没だと思われることが記されている。〈この時まで現代の日本の南方、太平洋面にはまだ数百里の大陸がつづいてゐたが〉


== ムー大陸 ==
== ムー大陸 ==
[[ファイル:大阪毎日新聞 昭和7年6月19日朝刊p7.jpg|thumb|『大阪毎日新聞』昭和7年(1932年)6月19日朝刊p7に掲載されたチャーチワードのムー大陸説を紹介する記事。]]
[[ファイル:大阪毎日新聞 昭和7年6月19日朝刊p7.jpg|thumb|『大阪毎日新聞』昭和7年(1932年)6月19日朝刊p7に掲載されたチャーチワードのムー大陸説を紹介する記事。]]
[[ファイル:『南洋諸島の古代文化』巻頭地図.jpg|thumb|チャーチワードの著書『南洋諸島の古代文化』の巻頭に掲載されているムー大陸の地図。]]


黄泉島とは、はるか太古に太平洋にあり、沈没して沈んでしまった、いわゆるムー大陸のことである。
黄泉島とは、はるか太古に太平洋にあり、沈没して沈んでしまった、いわゆるムー大陸のことである。


ムー大陸の存在は20世紀初頭にイギリス生まれ<ref>1890年代にアメリカに移住</ref>の作家ジェームズ・チャーチワードによって有名になった。チャーチワードの説によると、ムー大陸の大きさは東西に8000キロ、南北に5000キロあるという。
ムー大陸の存在は20世紀初頭にイギリス生まれ<ref>1890年代にアメリカに移住</ref>の作家ジェームズ・チャーチワードによって発表され有名になった。チャーチワードの説によると、ムー大陸の大きさは東西に8000キロ、南北に5000キロあるという。


出口王仁三郎は、大正11年(1922年)2月18日に書いた霊界物語第9巻総説歌で、黄泉島の大きさについて次のように記している。
出口王仁三郎は、大正11年(1922年)2月18日に書いた霊界物語第9巻総説歌で、黄泉島の大きさについて次のように記している。
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1浬(海里)≒1.852キロメートルで計算すると、横(東西)3100浬は約5741キロメートル、縦(南北)2700浬は約5000キロメートルになる。
1浬(海里)≒1.852キロメートルで計算すると、横(東西)3100浬は約5741キロメートル、縦(南北)2700浬は約5000キロメートルになる。


王仁三郎は昭和7年(1932年)『大阪毎日新聞』6月19日朝刊<ref>『[[昭和青年]]』昭和7年(1932年)8月号p79に「六月廿一日の大毎紙上に 噴火のため海底へ没した文化発祥の花園「ム」大陸奇談 なる題下に」云々という記事があるが、実際には6月19日の朝刊に掲載されている。</ref> <ref>その後『サンデー毎日』昭和7年8月特大号、10月2日号にムー大陸が紹介された。参考「[https://myth-imagination.net/lostcontinents/continent-mu/1921/ 日本における最初期の「ムー大陸」紹介(1)]」</ref>)でムー大陸の記事(画像参照)を見て、ムー大陸とは「霊界物語中に示された黄泉島の事である」と発言している。〔{{kgm|561|「ム」大陸は黄泉島}}、初出は『神の国』昭和7年10月号〕
王仁三郎は昭和7年(1932年)『大阪毎日新聞』6月19日朝刊<ref>『[[昭和青年]]』昭和7年(1932年)8月号p79に「六月廿一日の大毎紙上に 噴火のため海底へ没した文化発祥の花園「ム」大陸奇談 なる題下に」云々という記事があるが、実際には6月19日の朝刊に掲載されている。</ref> <ref>その後『サンデー毎日』昭和7年8月特大号、10月2日号にムー大陸が紹介された。</ref>)でムー大陸の記事(画像参照)を見て、ムー大陸とは「霊界物語中に示された黄泉島の事である」と発言している。〔{{kgm|561|「ム」大陸は黄泉島}}、初出は『神の国』昭和7年10月号〕


ちなみにチャーチワードが『The Lost Continent of Mu』を発刊したのは1926年、『The Children of Mu』<ref>邦題『南洋諸島の古代文化』昭和17年(1942年)、岡倉書房</ref>を発刊したのは1936年であり、王仁三郎はそれより数年以上前(1922年)に霊界物語で太平洋の失われた大陸の存在を発表していたことになる。
ちなみにチャーチワードが『The Lost Continent of Mu』を発刊したのは1926年、『The Children of Mu』<ref>邦題『南洋諸島の古代文化』外部リンク参照</ref>を発刊したのは1936年であり、王仁三郎はそれより数年以上前(1922年)に霊界物語で太平洋の失われた大陸の存在を発表していたことになる。
 
日本で最初にチャーチワードの説が紹介されたのは、大正15年(1926年)2月『旬刊写真報知』の記事のようである。<ref>『旬刊写真報知』大正15年(1926年)2月15日、報知新聞社出版部、19頁「どつと沈んだ太平洋の大陸 有史前の珍しい話」。【参考】[https://jyunku.hatenablog.com/entry/2023/08/03/065808 大正15年2月日本に上陸していたチャーチワードのムー大陸伝説] - 神保町系オタオタ日記</ref>


[[木庭次守]]編『[[新月の光]]』には次のことが記されている。
[[木庭次守]]編『[[新月の光]]』には次のことが記されている。
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* ゼ・チャーチワード 著、仲木貞一 訳『南洋諸島の古代文化』昭和17年(1942年)、岡倉書房、{{ndldl|3440673}}
* {{wp|ムー大陸}}
* {{wp|ムー大陸}}
* {{wp|ジェームズ・チャーチワード}}
* {{wp|ジェームズ・チャーチワード}}