「第二次大本事件」の版間の差分

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[[ファイル:指六本で無罪を示す王仁三郎1.jpg|thumb|六本指で無罪を示す王仁三郎。昭和11年3月11日。]]
[[ファイル:指六本で無罪を示す王仁三郎1.jpg|thumb|[[六本指]]で無罪を示す王仁三郎。昭和11年3月11日。]]


'''第二次大本事件'''(だいにじおおもとじけん)は、昭和10年に政府が[[大本]]を弾圧した事件。大本を地上から抹殺するという意図の下、徹底的な検挙や破壊が行われ、近代日本宗教史上最大と言われるほどの大弾圧だった。
'''第二次大本事件'''(だいにじおおもとじけん)は、昭和10年に政府が[[大本]]を弾圧した事件。大本を地上から抹殺するという意図の下、徹底的な検挙や破壊が行われ、近代日本宗教史上最大と言われるほどの大弾圧だった。
[[出口王仁三郎]]ら数十名が不敬罪・治安維持法違反等の容疑で検挙され、61名が起訴された。綾部・亀岡の両聖地を始め全国の大本の施設は当局によって徹底的に破壊された。王仁三郎は不敬罪で一審は無期懲役、二審では懲役5年の判決を受ける。第二次大戦後に大審院で上告棄却の判決を受け原審が確定。しかし大赦令によって赦免となり、無罪となって事件は終結した。


== 概史 ==
== 概史 ==
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=== 大検挙と徹底的な破壊 ===
=== 大検挙と徹底的な破壊 ===
[[ファイル:押収された証拠品.jpg|thumb|押収され山積みにされた証拠品]]
昭和10年(1935年)12月8日午前0時、京都府警は「臨時歳末一斉警戒」の名目で警官隊を動員し、午前4時頃、綾部と亀岡の大本本部を完全に包囲した。武装警官約500人が一斉に突入し、[[出口日出麿]]や[[東尾吉三郎]]ら幹部を次々と検挙した。
昭和10年(1935年)12月8日午前0時、京都府警は「臨時歳末一斉警戒」の名目で警官隊を動員し、午前4時頃、綾部と亀岡の大本本部を完全に包囲した。武装警官約500人が一斉に突入し、[[出口日出麿]]や[[東尾吉三郎]]ら幹部を次々と検挙した。


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=== 拷問と第一審判決 ===
=== 拷問と第一審判決 ===
[[ファイル:第二次大本事件の公判1.jpg|thumb|公判の様子]]
検挙された王仁三郎ら幹部61人に対し、警察と検察は過酷な取調べを行った。特高警察は、「天皇陛下ノ御名ニ於テスル取調ベ」と称して、殴る蹴るの暴行や、竹刀での乱打といった拷問を加えた。[[出口日出麿]]は激しい拷問により精神に異常をきたし、幹部の[[岩田久太郎]]は獄中で死亡、[[栗原七蔵]]は自殺に追い込まれた。
検挙された王仁三郎ら幹部61人に対し、警察と検察は過酷な取調べを行った。特高警察は、「天皇陛下ノ御名ニ於テスル取調ベ」と称して、殴る蹴るの暴行や、竹刀での乱打といった拷問を加えた。[[出口日出麿]]は激しい拷問により精神に異常をきたし、幹部の[[岩田久太郎]]は獄中で死亡、[[栗原七蔵]]は自殺に追い込まれた。


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昭和17年7月31日、判決が言い渡された。その内容は驚くべきものだった。主文において、治安維持法違反については全員無罪とされた。裁判所は、「大本は国体変革を目的とする結社ではない」と認定し、検察側が主張した「王仁三郎が天皇に代わって統治者になる」という公訴事実を、「証拠なし」「教義の曲解である」として全面的に退けた。
昭和17年7月31日、判決が言い渡された。その内容は驚くべきものだった。主文において、治安維持法違反については全員無罪とされた。裁判所は、「大本は国体変革を目的とする結社ではない」と認定し、検察側が主張した「王仁三郎が天皇に代わって統治者になる」という公訴事実を、「証拠なし」「教義の曲解である」として全面的に退けた。


ただし不敬罪については一部有罪が維持され、王仁三郎には懲役5年が言い渡された。だが、最大の焦点であった治安維持法違反(反逆罪)が無罪となったことは、弁護団と信者にとって大きな勝利であった。この判決により、8月7日、王仁三郎、澄子、日出麿の3人は6年8ヶ月ぶりに保釈出所し亀岡に帰郷した。
ただし不敬罪については一部有罪が維持され、王仁三郎には懲役5年が言い渡された(「[[第二次大本事件控訴審不敬認定箇所]]」参照)。だが、最大の焦点であった治安維持法違反(反逆罪)が無罪となったことは、弁護団と信者にとって大きな勝利であった。この判決により、8月7日、王仁三郎、澄子、日出麿の3人は6年8ヶ月ぶりに保釈出所し亀岡に帰郷した。


=== 戦時下の苦難と信仰の護持 ===
=== 戦時下の苦難と信仰の護持 ===
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=== 最終的な解決と大本の新生 ===
=== 最終的な解決と大本の新生 ===
[[ファイル:第二次大本事件解決奉告祭.jpg|thumb|第二次大本事件解決奉告祭]]
第二審の判決に対し、検察側は治安維持法違反について、弁護側は不敬罪についてそれぞれ上告した。戦局が悪化し、東京が大空襲に見舞われる中で、大審院での審理は停滞したが、昭和20年9月8日、大審院は双方の上告を棄却する判決を下した。これにより、治安維持法違反の無罪と、不敬罪の有罪が確定した。
第二審の判決に対し、検察側は治安維持法違反について、弁護側は不敬罪についてそれぞれ上告した。戦局が悪化し、東京が大空襲に見舞われる中で、大審院での審理は停滞したが、昭和20年9月8日、大審院は双方の上告を棄却する判決を下した。これにより、治安維持法違反の無罪と、不敬罪の有罪が確定した。


その直前の8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して降伏した。GHQの指令により、治安維持法や不敬罪、[[宗教団体法]]などの弾圧法規は撤廃された。そして10月17日には[[大赦令]]が公布され、第二次大本事件に関するすべての公訴権は消滅し、事件は法的に完全に解消された。不敬罪の有罪も消滅し、晴れて無罪となったのである。
その直前の8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して降伏した。GHQの指令により、治安維持法や不敬罪、[[宗教団体法]]などの弾圧法規は撤廃された。そして10月17日には[[昭和二十年勅令第五百七十九号|大赦令]]が公布され、第二次大本事件に関するすべての公訴権は消滅し、事件は法的に完全に解消された。不敬罪の有罪も消滅し、晴れて無罪となったのである。


事件の解決と共に、奪われていた土地の返還交渉も進められた。綾部・亀岡両町に譲渡されていた旧聖地の土地は、昭和20年11月までに大本側に返還された。廃墟と化した聖地に立った王仁三郎は、「全部叩き潰されたが、木だけは大きくなったなあ」と感慨深げに語ったという。
事件の解決と共に、奪われていた土地の返還交渉も進められた。綾部・亀岡両町に譲渡されていた旧聖地の土地は、昭和20年11月までに大本側に返還された。廃墟と化した聖地に立った王仁三郎は、「全部叩き潰されたが、木だけは大きくなったなあ」と感慨深げに語ったという。
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【昭和20年(1945年)】
【昭和20年(1945年)】
[[ファイル:第二次大本事件解決奉告祭.jpg|thumb|第二次大本事件解決奉告祭]]
* 9月8日:大審院判決。上告棄却し、原審確定。
* 9月8日:大審院判決。上告棄却し、原審確定。
* 10月17日:[[大赦令]]によって無罪となり事件は解消する。
* 10月17日:[[昭和二十年勅令第五百七十九号|大赦令]]によって無罪となり事件は解消する。
* 10月18日:亀岡町から大本に土地が返還され、土地移転登記完了。
* 10月18日:亀岡町から大本に土地が返還され、土地移転登記完了。
* 11月15日:綾部町から大本に土地が返還され、土地移転登記完了。
* 11月15日:綾部町から大本に土地が返還され、土地移転登記完了。
* 12月8日(旧11月4日)(土曜):[[第二次大本事件解決奉告祭]]。大本を「[[愛善苑]]」という名で再建することが発表される。<ref>{{obc|Z9004|事件解決奉告祭挨拶}}</ref>
* 12月8日(旧11月4日)(土曜):[[第二次大本事件解決奉告祭]]。大本を「[[愛善苑]]」という名で再建することが発表される。<ref>{{obc|Z9004|事件解決奉告祭挨拶}}</ref>
== 資料 ==
* 『[[大本史料集成]] Ⅲ 事件篇』「{{obc|B195503c2|第二部 第二次事件関係}}」(警察資料、裁判所資料、弁護資料)
* 各被告人の罪状、求刑、判決:『[[日本政治裁判史録]] 昭和・後』125頁、https://dl.ndl.go.jp/pid/2992897/1/68


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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* [[一厘組]]
* [[一厘組]]
* [[六本指]]
* [[六本指]]
* [[第二次大本事件控訴審不敬認定箇所]]


== 脚注 ==
== 脚注 ==
<references/>
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[[Category:出来事]]
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[[Category:第二次大本事件|*]]
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