「出口王仁三郎」の版間の差分
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* [[出口王仁三郎の著述]] | * [[出口王仁三郎の著述]] | ||
* [[出口王仁三郎の著述#歌集]] | |||
* [[出口王仁三郎の写真]] | * [[出口王仁三郎の写真]] | ||
* [[出口王仁三郎の歌碑]] | * [[出口王仁三郎の歌碑]] | ||
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== 別名・雅号 == | == 別名・雅号 == | ||
王仁三郎は多数の別名や雅号、筆名を持つ。 | |||
* [[瑞霊真如]](ずいれいしんにょ): | * [[瑞霊真如]](ずいれいしんにょ): | ||
* [[変性女子]](へんじょうにょし): | * [[変性女子]](へんじょうにょし): | ||
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* [[海潮]](かいちょう):雅号。 | * [[海潮]](かいちょう):雅号。 | ||
* [[瑞月]](ずいげつ):著作執筆で使っていた雅号の一つ。『[[神霊界]]』大正10年(1921年)2月号掲載「[[故郷乃二十八年]]」冒頭の「執筆の理由」<ref>『出口王仁三郎著作集 第五巻』「{{obc|B195305c103|生いたちの記}}」。「執筆の理由」は全集第八巻「故郷の弐拾八年」では省略されている。</ref>によると、神様が王仁三郎の別名を「瑞月」と付けてくれたので、その月から「瑞月」という号で執筆することにした。その執筆日は大正9年(1920年)12月26日である。 | * [[瑞月]](ずいげつ):著作執筆で使っていた雅号の一つ。『[[神霊界]]』大正10年(1921年)2月号掲載「[[故郷乃二十八年]]」冒頭の「執筆の理由」<ref>『出口王仁三郎著作集 第五巻』「{{obc|B195305c103|生いたちの記}}」。「執筆の理由」は全集第八巻「故郷の弐拾八年」では省略されている。</ref>によると、神様が王仁三郎の別名を「瑞月」と付けてくれたので、その月から「瑞月」という号で執筆することにした。その執筆日は大正9年(1920年)12月26日である。 | ||
* [[月の家]](つきのや):雅号。 | |||
* [[月の家和歌麿]]、月廼家和歌麿(つきのや わかまろ):雅号。 | |||
* [[尋仁]](じんじん):道名([[道院]]での宗教名)。雅号。 | * [[尋仁]](じんじん):道名([[道院]]での宗教名)。雅号。 | ||
* [[忠勝]](ただかつ?):雅号。 | * [[忠勝]](ただかつ?):雅号。 | ||
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* [[王仁さん]](わにさん):あだ名。 | * [[王仁さん]](わにさん):あだ名。 | ||
* 管長さん:明治末期から大正初期にかけて王仁三郎は信者から「管長さん」と呼ばれていた。肩書きではなく通称。明治41年(1908年)頃、王仁三郎は[[御嶽教]]の「副管長」を務めていたことがあったが、そのため大本の信者から「管長さん」と呼ばれるようになった<ref>[[浅野和三郎]]『[[出廬]]』72頁</ref>。開祖の筆先でも「管長」と呼ばれている場合がある<ref>『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c2121|大本教の教規と信条}}」:〈管長が坤の金神で〉(これは大正元年旧11月21日の筆先だが、大本神諭には入っていない)、〈このころから筆先では、開祖は「大出口の大守」とよばれてくる。そのために役員・信者らは、開祖のことを「おおかみさま」とよび、王仁三郎のことを「管長さん」とよぶようになった〉</ref>。<ref>『[[大地の母]]』みいづ舎版、第9巻、363頁:明治44年(1911年)〈八月二十七日、王仁三郎が大日本修斎会の会長を辞任(略)王仁三郎は大日本修斎会を超越した教主的立場で教団を指導することになる。この頃から、会員たちは王仁三郎を「管長さん」と呼び慣らわした。〉</ref> | * 管長さん:明治末期から大正初期にかけて王仁三郎は信者から「管長さん」と呼ばれていた。肩書きではなく通称。明治41年(1908年)頃、王仁三郎は[[御嶽教]]の「副管長」を務めていたことがあったが、そのため大本の信者から「管長さん」と呼ばれるようになった<ref>[[浅野和三郎]]『[[出廬]]』72頁</ref>。開祖の筆先でも「管長」と呼ばれている場合がある<ref>『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c2121|大本教の教規と信条}}」:〈管長が坤の金神で〉(これは大正元年旧11月21日の筆先だが、大本神諭には入っていない)、〈このころから筆先では、開祖は「大出口の大守」とよばれてくる。そのために役員・信者らは、開祖のことを「おおかみさま」とよび、王仁三郎のことを「管長さん」とよぶようになった〉</ref>。<ref>『[[大地の母]]』みいづ舎版、第9巻、363頁:明治44年(1911年)〈八月二十七日、王仁三郎が大日本修斎会の会長を辞任(略)王仁三郎は大日本修斎会を超越した教主的立場で教団を指導することになる。この頃から、会員たちは王仁三郎を「管長さん」と呼び慣らわした。〉</ref> | ||
* [[天爵道人]](てんしゃくどうじん?):『[[神霊界]]』誌の大正7年発行の複数の号で、この筆名での文章が掲載されている。 | |||
== 家族 == | == 家族 == | ||
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[[ファイル:出口王仁三郎と澄子の結婚.jpg|thumb|結婚式]] | [[ファイル:出口王仁三郎と澄子の結婚.jpg|thumb|結婚式]] | ||
→詳細は「[[大本の歴史#略年表]]」 | |||
* 明治4年7月12日(1871年8月27日):上田喜三郎生誕 | * 明治4年7月12日(1871年8月27日):上田喜三郎生誕 | ||
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→「[[大本の歴史#略史]]」 | →「[[大本の歴史#略史]]」 | ||
→「[[出口王仁三郎の巡教]]」 | |||
ここではそこに書き切れない細かな事柄を記す。 | ここではそこに書き切れない細かな事柄を記す。 | ||
<書きかけ> | |||
=== 少年青年時代 === | === 少年青年時代 === | ||
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* {{wp|敷島_(たばこ)}} | * {{wp|敷島_(たばこ)}} | ||
=== 髪形 === | |||
写真で見る王仁三郎の髪形は、年代によって異なる。若い頃は短髪であったが、40歳代から長髪となる。 | |||
最盛期は髪が腰の辺りまであった。その長い髪を頭頂で折り畳み、ヘアーネットをかぶっていた。 | |||
いつ頃からヘアーネットをかぶり出したのかは分からないが、ヘアーネットをかぶっている写真は、昭和に入ってからである。 | |||
二度にわたる[[大本事件]]で投獄された際には、短髪にさせられた。 | |||
出獄後は、また髪を伸ばしている。 | |||
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ファイル:出口王仁三郎18.jpg|30歳前後 | |||
ファイル:出口王仁三郎25.jpg|40代後半(大正8~9年頃) | |||
ファイル:入蒙前の出口王仁三郎.jpg|50代前半(大正13年頃) | |||
ファイル:渡台船中の王仁三郎一行(昭和2年).jpg|56歳頃(昭和2年)ヘアーネットをかぶっている | |||
ファイル:出口王仁三郎3.jpg|62歳頃(昭和8年)髪を上部で折り畳んでいることがわかる | |||
ファイル:Mirokutou.jpg|髪を下ろすと腰まであった(年代不明) | |||
ファイル:長生殿礎石に立つ出口王仁三郎(昭和10年).jpg|64歳頃(昭和10年) | |||
ファイル:指六本で無罪を示す王仁三郎.jpg|65歳頃(昭和11年)勾留中 | |||
ファイル:出口王仁三郎(晩年).jpg|74歳頃(昭和20年頃) | |||
</gallery> | |||
長髪にしていた理由としては「髪は神へ通じる架け橋である」ということがある。<ref>{{kgm|142|頭髪と人間の使命}}、{{kgm|741|頭髪}}</ref> | |||
* [[長髪族]]:大正時代の大本の宣伝部隊はほとんどが長髪で、世間から「長髪族」と呼ばれていた。 | |||
== 交友関係 == | == 交友関係 == | ||