「本宮山神殿」の版間の差分
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* 12月5日、拝殿の上棟式。 | * 12月5日、拝殿の上棟式。 | ||
'''【大正10年(1921年)】''' | '''【大正10年(1921年)】''' | ||
* | * 2月12日、[[第一次大本事件]]。 | ||
* 7月27日、神示により本宮山神殿に[[御三体の大神]]様の仮鎮座祭を執行。斎主は三代直日。 | * 7月27日、神示により本宮山神殿に[[御三体の大神]]様の仮鎮座祭を執行。斎主は三代直日。 | ||
* 10月11日、王仁三郎は京都府庁で本宮山神殿取毀命令を受ける。 | * 10月11日、王仁三郎は京都府庁で本宮山神殿取毀命令を受ける。 | ||
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* 10月18日(旧9月18日)、本宮山神殿取毀につき奉告祭を行い、大神様の御昇神を奏上。斎主は三代直日。一方、王仁三郎は[[松雲閣]]で[[霊界物語]]の口述を開始する。 | * 10月18日(旧9月18日)、本宮山神殿取毀につき奉告祭を行い、大神様の御昇神を奏上。斎主は三代直日。一方、王仁三郎は[[松雲閣]]で[[霊界物語]]の口述を開始する。 | ||
* 10月20日(旧9月20日)、本宮山神殿の取毀工事が始まる。何鹿郡の在郷軍人3千余人が動員される。 | * 10月20日(旧9月20日)、本宮山神殿の取毀工事が始まる。何鹿郡の在郷軍人3千余人が動員される。 | ||
* | * 10月27日、取毀完了。同日より[[五六七殿]]にて夕拝後に霊界物語の拝読を連日行うこととなる。 | ||
'''【取毀後】''' | '''【取毀後】''' | ||
* 大正13年(1924年)本宮山神殿の中門を、神苑の西門として再建した。塀も再建した。 →「[[西門]]」 | |||
* 昭和5年(1930年)4月1日に完成した[[穹天閣]]は、取り壊された本宮山神殿の材料を用いて建てられた。<ref>『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c5132|本部の体制}}」</ref> | * 昭和5年(1930年)4月1日に完成した[[穹天閣]]は、取り壊された本宮山神殿の材料を用いて建てられた。<ref>『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c5132|本部の体制}}」</ref> | ||
* 弥仙山の「中の宮」([[於成神社]])も、本宮山神殿の材料で作られた。建築時期は不明。<ref>『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c1632|弥仙山}}」237頁</ref> | * 弥仙山の「中の宮」([[於成神社]])も、本宮山神殿の材料で作られた。建築時期は不明。<ref>『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c1632|弥仙山}}」237頁</ref> | ||
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本宮山神殿は大正9年(1920年)4月から造営が始まった。大正10年2月12日に[[第一次大本事件]]が勃発したが、その後も造営は続けられ、7月に仮鎮座祭が執行された。 | 本宮山神殿は大正9年(1920年)4月から造営が始まった。大正10年2月12日に[[第一次大本事件]]が勃発したが、その後も造営は続けられ、7月に仮鎮座祭が執行された。 | ||
しかし10月11日、当局は建てられたばかりのこの神殿を取り毀せ<ref> | しかし10月11日、当局は建てられたばかりのこの神殿を取り毀せ<ref>当時の文献では「取り壊し」「取壊」ではなく「取り毀し」「取毀」または「取り毀(こぼ)ち」等と書かれている場合が多い。意味はどちらも同じ。</ref>と王仁三郎に命じた。表向きの理由は法令違反である。[[明治五年大蔵省布達第百十八号|明治5年(1872年)の大蔵省布達]]と、[[大正二年内務省令第六号|大正2年(1913年)の内務省令]]に違反するため今月31日までに取り壊せ、もし命令に従わない場合は当局の手によって取り壊し、その費用を大本から徴収する、と有無を言わせぬ強圧的な姿勢で当局は命じた。 | ||
大切な神殿を信者の手で破壊することはできない。18日に急遽、本宮山神殿の告別式と昇神祭が行われ、破却は当局の手に委ねることになった。 | 大切な神殿を信者の手で破壊することはできない。18日に急遽、本宮山神殿の告別式と昇神祭が行われ、破却は当局の手に委ねることになった。 | ||