「用語メモ」の版間の差分

編集の要約なし
編集の要約なし
 
(同じ利用者による、間の5版が非表示)
1行目: 1行目:
'''オニペディア編集者用のメモ'''
'''オニペディア編集者用のメモ'''


* [[清潔主義]]・[[楽天主義]]・[[進展主義]]・[[統一主義]]
* 天の数歌の意味 求道居士 https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm5610#a095
* 天の数歌の意味 求道居士 https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm5610#a095
* [[霊力体]]
* [[霊力体]]
16行目: 17行目:
**夜11時、節分祭開始 『真如の光』大正15年(1926年)2月15日号p7
**夜11時、節分祭開始 『真如の光』大正15年(1926年)2月15日号p7
* 世の人の呪ひを愛に宣り直す人のこころに神くにはあり 『真如の光』大正14年(1925年)12月25日号p55 詠み人不明
* 世の人の呪ひを愛に宣り直す人のこころに神くにはあり 『真如の光』大正14年(1925年)12月25日号p55 詠み人不明
* [[アマゾン]]、[[モールバンド]]、[[エルバンド]]そのままの映画 『ロストワールド』(ファーストナショナル社)[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89_(1925%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB) ウィキペディア] 『真如の光』大正15年(1926年)1月25日号p20,p40
* 第60巻の[[天津祝詞]]、[[神言]]「現今は使用せず」 使用しないようにとの注意 『真如の光』大正15年(1926年)4月5日号p37
* 第60巻の[[天津祝詞]]、[[神言]]「現今は使用せず」 使用しないようにとの注意 『真如の光』大正15年(1926年)4月5日号p37
* 真如能光という題名は瑞月真如聖師の名にちなんだもの。『真如の光』大正15年(1926年)4月5日号p66
* 真如能光という題名は瑞月真如聖師の名にちなんだもの。『真如の光』大正15年(1926年)4月5日号p66
35行目: 35行目:
* 「神」と「司」について {{rm|7|41|枯木の花}} [[高照彦]]のセリフ「父のこの世を知召す時代は神代といつて誰も彼も皆神の名を賜つたが、世界の立替以後大洪水の後のこの世は神の名は無くなつて、誰も彼も人といふ名になり、彼方、此方の頭するものばかりが司となつて、加美といふ名をつけることになつた」
* 「神」と「司」について {{rm|7|41|枯木の花}} [[高照彦]]のセリフ「父のこの世を知召す時代は神代といつて誰も彼も皆神の名を賜つたが、世界の立替以後大洪水の後のこの世は神の名は無くなつて、誰も彼も人といふ名になり、彼方、此方の頭するものばかりが司となつて、加美といふ名をつけることになつた」
* 霊界物語 神劇 真如の光 昭和7年(1932年)11月15日号 p17,20に記事あり
* 霊界物語 神劇 真如の光 昭和7年(1932年)11月15日号 p17,20に記事あり
* 真如の光 昭和8年(1933年)2/15p128 急告 壬申日記が廃刊 お歌は明光誌上に掲載することになった
* 真如の光 昭和8年(1933年)2/25巻末広告 人類愛善会調査局が設置された旨あり
* 真如の光 昭和8年(1933年)2/25巻末広告 人類愛善会調査局が設置された旨あり
* 真如の光 昭和9年(1934年)2月10日号p1
* 真如の光 昭和9年(1934年)2月10日号p1
46行目: 45行目:
* 鎮魂帰神(幽斎)の実習法を変更 神霊界 大正9年(1920年)5月21日号 龍門号 p35の公告 5月15日付
* 鎮魂帰神(幽斎)の実習法を変更 神霊界 大正9年(1920年)5月21日号 龍門号 p35の公告 5月15日付
* 王仁三郎が[[天津金木]]を使わなくなった理由──いつでもどこでも未来が見通せるようになったから [[島本邦彦]]『[[大地の叫び]]』p165「さらに覚也は、言霊学の研究者の一人として、わが国に伝わる神占の一種である天津金木─神算木─に深い関心をよせている旨も告げる。聖師はその問題に触れるや、わざわざ文箱より天津金木を取り出された。大本では、大正十年の第一次大本事件の頃までは、新年祭の時にこの神器を運用して、前途を神に伺い、神示を得ていた模様で、聖師自ら正月の綾部で斎戒沐浴、精進潔斎ののちに祭服に威儀を正して厳修したものだという。昭和にはいるとそれももう必要なくなったようだ。というのも、聖師がもう何処にあってもつねに未来が見通せるまでの境地に達しられたせいだという。」
* 王仁三郎が[[天津金木]]を使わなくなった理由──いつでもどこでも未来が見通せるようになったから [[島本邦彦]]『[[大地の叫び]]』p165「さらに覚也は、言霊学の研究者の一人として、わが国に伝わる神占の一種である天津金木─神算木─に深い関心をよせている旨も告げる。聖師はその問題に触れるや、わざわざ文箱より天津金木を取り出された。大本では、大正十年の第一次大本事件の頃までは、新年祭の時にこの神器を運用して、前途を神に伺い、神示を得ていた模様で、聖師自ら正月の綾部で斎戒沐浴、精進潔斎ののちに祭服に威儀を正して厳修したものだという。昭和にはいるとそれももう必要なくなったようだ。というのも、聖師がもう何処にあってもつねに未来が見通せるまでの境地に達しられたせいだという。」
* 十ヶ月暦(改暦案)について 神の国 昭和6年(1931年)10月号94頁聖都消息に記事あり
* 大正6年(1917年)春頃には大本で長髪にしていたのは王仁三郎と梅田くらいしかいなかった。浅野和三郎『冬籠』108頁
* 大正6年(1917年)春頃には大本で長髪にしていたのは王仁三郎と梅田くらいしかいなかった。浅野和三郎『冬籠』108頁
* 霊界物語第60巻掲載の天津祝詞、神言は使用してはいけない。真如の光 大正15年(1926年)4月5日号 37頁
* 長髪は許しがなくては勝手にしてはいけない。真如の光 大正15年(1926年)4月5日号 37頁
* [[別格南海分院]]の設置される迄 真如の光 昭和9年(1934年)9月号p72


== 東北日記 ==
== 東北日記 ==