「出雲大神宮」の版間の差分
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* 丹波国一宮。旧・国幣中社。延喜式内社<ref>式内社2861社のうち「出雲神社」という名称の神社は3社ある。丹波国桑田郡、出雲国出雲郡、周防国佐波郡にあるが、丹波国桑田郡(現・出雲大神宮)は名神大社で、他は小社である。[https://dl.ndl.go.jp/pid/1273537/1/103 延喜式神名帳]</ref>。 | * 丹波国一宮。旧・国幣中社。延喜式内社<ref>式内社2861社のうち「出雲神社」という名称の神社は3社ある。丹波国桑田郡、出雲国出雲郡、周防国佐波郡にあるが、丹波国桑田郡(現・出雲大神宮)は名神大社で、他は小社である。[https://dl.ndl.go.jp/pid/1273537/1/103 延喜式神名帳]</ref>。 | ||
* 戦後は神社本庁に所属していたが、昭和29年(1954年)に単立法人となる。<ref>『宗教年鑑 昭和32年版』(昭和33年3月発行)177頁、{{ndldl|3004613/1/95}}</ref> | * 戦後は神社本庁に所属していたが、昭和29年(1954年)に単立法人となる。<ref>『宗教年鑑 昭和32年版』(昭和33年3月発行)177頁、{{ndldl|3004613/1/95}}</ref> | ||
* | * 延喜式に記載された名称は「出雲神社」であり、'''昭和20年代まで「出雲神社」と名乗っていた'''。20年代末に「出雲大神宮」に改名した。<ref>おそらく昭和29年(1954年)に神社本庁から離脱して単立法人となった時に「出雲大神宮」に改名したのだと思われる。『京都年鑑 昭和27年版』(昭和26年11月発行)536頁、{{ndldl|3001606/1/280}}には、京都府神社庁所属の〈出雲神社〉と記されている。『宗教年鑑 昭和32年版』177頁には名称は〈出雲大神宮〉で〈29年単立新法人となる〉と記されている。</ref> <ref>「出雲大神宮」は出雲大社の別称の一つである。記紀にそれぞれ1回ずつ見える。日本書紀の崇神天皇60年秋7月朔日に「武日照命《たけひなてるのみこと》の、天より持ち来れる神宝を、出雲大神宮《いづものおほかみのみや》に蔵《をさ》む」とある。また古事記の垂仁天皇の段に「その祟りは出雲の大神の御心なり。故《かれ》その御子を、その大神の宮を拝《をろが》ましめに」とある。</ref> | ||
* 国常立尊が鎮まる御神体山は「御影山(みかげやま)」と呼ばれる。また「御蔭山」「千年山(ちとせやま)」とも呼ばれる。 | * 国常立尊が鎮まる御神体山は「御影山(みかげやま)」と呼ばれる。また「御蔭山」「千年山(ちとせやま)」とも呼ばれる。 | ||
** この地域が「千歳(ちとせ)」と呼ばれるのは、御神体山の「千年(ちとせ)」山に由来する。「千年」の由来は、昔、一人の老人がこの山に住んでいたが、老人とは思えない若々しい容姿だった。村人が老人に「この山に何年住んでいるのか」と尋ねると、老人は「千年になる」と答えたという伝承がある。<ref name="pid1040146">高橋新吉『神社参拝』</ref> | ** この地域が「千歳(ちとせ)」と呼ばれるのは、御神体山の「千年(ちとせ)」山に由来する。「千年」の由来は、昔、一人の老人がこの山に住んでいたが、老人とは思えない若々しい容姿だった。村人が老人に「この山に何年住んでいるのか」と尋ねると、老人は「千年になる」と答えたという伝承がある。<ref name="pid1040146">高橋新吉『神社参拝』</ref> | ||
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** 王仁三郎の歌集の中に藤木宮司が出て来る。→「[[#王仁三郎との関わり]]」 | ** 王仁三郎の歌集の中に藤木宮司が出て来る。→「[[#王仁三郎との関わり]]」 | ||
* 明治44年(1911年)5月23日 広瀬侍郎(じろう)<ref>広瀬は禰宜だったが宮司へ昇格。前宮司の藤木は高良神社(筑後国一宮。久留米市)の宮司へ転勤。</ref> <ref>官報 明治44年(1911年)5月24日574頁下段右 {{ndldl|2951731/1/2}}</ref> <ref name="kubota_p17">名「じろう」「のりとし」の読み方は窪田「やっぱりあった素盞嗚尊の社」17頁による</ref> | * 明治44年(1911年)5月23日 広瀬侍郎(じろう)<ref>広瀬は禰宜だったが宮司へ昇格。前宮司の藤木は高良神社(筑後国一宮。久留米市)の宮司へ転勤。</ref> <ref>官報 明治44年(1911年)5月24日574頁下段右 {{ndldl|2951731/1/2}}</ref> <ref name="kubota_p17">名「じろう」「のりとし」の読み方は窪田「やっぱりあった素盞嗚尊の社」17頁による</ref> | ||
** 広瀬侍郎の名は『[[庚午日記]] | ** 広瀬侍郎の名は『[[庚午日記]]』で王仁三郎が[[姓名読込歌]]として歌っている。〈惟神道も広瀬の宮司仕ふるいさをもいち侍郎きかな〉<ref>『[[庚午日記]] 二の巻』269頁、昭和5年(1930年)3月10日の条、{{ndldl|1086391/1/157}}</ref>。その前の頁にも広瀬宮司が宗教博に来たことに関する歌がいくつかある。<ref>『[[庚午日記]] 八の巻』9月10日条、『[[更生日記]] 二の巻』昭和6年(1931年)2月8日条、『壬申日記 八の巻』昭和7年(1932年)8月27日条にも広瀬宮司が歌われている。</ref> | ||
** 広瀬侍郎の略歴:〈明治八年七月千歳村に生る。亀岡高等小学校卒業後専ら国史を学んだ。氏の祖先は今より千二百前国幣中社出雲神社の出雲大社より遷座の際、出雲大社社家広瀬氏より分れて来た名家である。 氏は国幣中社出雲神社主典、禰宜、梅の宮禰宜を経て現在出雲神社宮司となったもので、資性怜悧、社交を善くし、特に歌道に長じ、府下神職会のオーソリチーと呼ばれて居る。〉<ref>『丹波及丹波人』昭和6年(1931年)、丹波青年社、574頁、{{ndldl|1108651/1/331}}</ref> | ** 広瀬侍郎の略歴:〈明治八年七月千歳村に生る。亀岡高等小学校卒業後専ら国史を学んだ。氏の祖先は今より千二百前国幣中社出雲神社の出雲大社より遷座の際、出雲大社社家広瀬氏より分れて来た名家である。 氏は国幣中社出雲神社主典、禰宜、梅の宮禰宜を経て現在出雲神社宮司となったもので、資性怜悧、社交を善くし、特に歌道に長じ、府下神職会のオーソリチーと呼ばれて居る。〉<ref>『丹波及丹波人』昭和6年(1931年)、丹波青年社、574頁、{{ndldl|1108651/1/331}}</ref> | ||
* 昭和8年(1933年)9月16日 広瀬伯紀(のりとし)<ref>官報 昭和8年(1933年)9月18日434頁三段目 {{ndldl|2958488/1/3}}</ref> <ref>広瀬侍郎は依願退職。伯紀は侍郎の息子。</ref> <ref name="kubota_p17" /> | * 昭和8年(1933年)9月16日 広瀬伯紀(のりとし)<ref>官報 昭和8年(1933年)9月18日434頁三段目 {{ndldl|2958488/1/3}}</ref> <ref>広瀬侍郎は依願退職。伯紀は侍郎の息子。</ref> <ref name="kubota_p17" /> | ||
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== 関連項目 == | == 関連項目 == | ||
* [[元伊勢]] | * [[元伊勢]] | ||
* [[元外宮]] | |||
* [[元伊勢皇大神社]] | |||
* [[元伊勢籠神社]] | * [[元伊勢籠神社]] | ||
* [[比沼麻奈為神社]](元外宮) | * [[比沼麻奈為神社]](元外宮) | ||
== 外部リンク == | == 外部リンク == | ||
* [http://www.izumo-d.org/ 出雲大神宮](公式サイト) | * [http://www.izumo-d.org/ 出雲大神宮](公式サイト) | ||
* | * {{wp|出雲大神宮}} | ||
* | * {{wp|亀岡市}} | ||
* | * {{wp|千歳村_(京都府)}} | ||
== 脚注 == | == 脚注 == | ||
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{{デフォルトソート:いすもたいしんくう}} | {{デフォルトソート:いすもたいしんくう}} | ||
[[Category:神社]] | [[Category:神社]] | ||
[[Category:出雲大神宮]] | [[Category:出雲大神宮|*]] | ||