「大正日日新聞社」の版間の差分
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[[ファイル:大正日日新聞復刊第1号.jpg|thumb|大正日日新聞の復刊第1号。大本が買収してから約1ヶ月後の大正9年(1920年)9月25日に復刊した。]] | |||
'''大正日日新聞社'''(たいしょうにちにちしんぶんしゃ)は、大正9年から11年にかけて[[大本]]が経営していた新聞社。もともとは日刊の一般紙を発行していた会社を大本が買収し、大本の主張を載せる新聞になった。 | '''大正日日新聞社'''(たいしょうにちにちしんぶんしゃ)は、大正9年から11年にかけて[[大本]]が経営していた新聞社。もともとは日刊の一般紙を発行していた会社を大本が買収し、大本の主張を載せる新聞になった。 | ||
== 概要 == | == 概要 == | ||
[[ファイル:大正日日新聞社の社屋.jpg|thumb|大正日日新聞社の社屋。]] | [[ファイル:大正日日新聞社の社屋.jpg|thumb|大正日日新聞社の社屋。]] | ||
[[ファイル:大正日日新聞社のマーク.jpg|thumb|大正日日新聞社のマーク。]] | |||
[[ファイル:大正日日新聞の題字.jpg|thumb|100px|大正日日新聞の題字。]] | |||
* 表記ゆれ:大正日々新聞社 | * 表記ゆれ:大正日々新聞社 | ||
* 霊界物語にも何度か名前が出る。初出:{{rm09|2|0003|総説}} | * 霊界物語にも何度か名前が出る。初出:{{rm09|2|0003|総説}} | ||
* 社屋は二階建ての洋館である。現在「HEP NAVIO」(旧・ナビオ阪急)が建っている場所に社屋があったようである。当時の住所は「大阪市北区北野角田町333番地」<ref>『新聞総覽 大正10年版』日本電報通信社、148頁、{{ndldl|11619538/1/196}}</ref>。(住所と、実際に社屋が建っていた位置について疑義がある→「[[トーク:大正日日新聞社]]」) | |||
== 略史 == | == 略史 == | ||
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しかし朝日・毎日の販売網を破ることが出来ず、経営難に陥り、一年足らずで身売りをする羽目になった。大本に買収の話が持ち込まれ、大正9年(1920年)7月中旬から交渉が行われた。8月5日に亀岡で買収の仮契約が、8月14日に本契約が取り交わされた。買収金額は表面的には35万円とされたが、実際には50万円が支払われた。<ref name="B195401c2351" /> | しかし朝日・毎日の販売網を破ることが出来ず、経営難に陥り、一年足らずで身売りをする羽目になった。大本に買収の話が持ち込まれ、大正9年(1920年)7月中旬から交渉が行われた。8月5日に亀岡で買収の仮契約が、8月14日に本契約が取り交わされた。買収金額は表面的には35万円とされたが、実際には50万円が支払われた。<ref name="B195401c2351" /> | ||
最初の主な人事は、社主・[[出口王仁三郎]]、社長・[[浅野和三郎]]、編集局長・[[岩田久太郎]] | 最初の主な人事は、社主・[[出口王仁三郎]]、社長・[[浅野和三郎]]、編集局長・[[岩田久太郎]]、編集顧問・鳥居素川などであった。信者ではない旧社員と、信者との混成であったため、意見の対立が絶えず、軋轢が生じたものの、9月25日<ref>『大本七十年史 上巻』497頁では25日になっているが、復刊第1号の発行日は26日になっている。大本七十年史が誤字なのか? あるいは当時は翌日の日付で発行していたのか?(現在でも夕刊紙は翌日の日付で発行している)</ref>に復刊第一号を発行。発行部数は48万部だった。<ref name="B195401c2351" /> (ちなみに大阪毎日新聞の大正10年元日時点での発行部数は約69万部<ref>小野秀雄・著『大阪毎日新聞社史』(大正14年4月、大阪毎日新聞社・東京日日新聞社)p140~141([https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1021556/82 NDLDC])には大阪毎日新聞の大正3年から13年までの元旦号の発行部数が掲載されている。それによると大正8年は513,414部、9年は602,408部、10年は686,539部、11年は824,941部である。</ref>、大阪朝日新聞の大正10年上半期の平均実売部数は約48万部である<ref>山本武利『近代日本の新聞読者層』(1981年、法政大学出版局)p410~411の「別表4 『朝日新聞』の発行部数(1日)」による。勘定報告書(営業報告書)の決算上半期の平均実売部数で、大正8年は384,242部、9年は396,501部、10年は483,557部、11年は584,222部である。</ref>。) | ||
紙面は、大本神諭の予言と警告を時事問題と付き合わせて一般の人々にも理解しやすく解説し、立替え立直しの神意を伝え、社会の革正を促そうという主張が内包されていた。<ref name="B195401c2352">『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195401c2352|新聞の論調}}」</ref> | 紙面は、大本神諭の予言と警告を時事問題と付き合わせて一般の人々にも理解しやすく解説し、立替え立直しの神意を伝え、社会の革正を促そうという主張が内包されていた。<ref name="B195401c2352">『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195401c2352|新聞の論調}}」</ref> | ||
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当初は当局により報道管制が敷かれ大本事件に関する報道は禁じられていたが、5月10日に解禁になると全国の新聞は一斉に大本批判を繰り広げ、大本は陰謀団、妖教、国賊との汚名が広がる。これに対して大正日日新聞は当局の不法をなじり、事件を法難とし、大本擁護の論陣を張った。<ref name="B195401c2354" /> | 当初は当局により報道管制が敷かれ大本事件に関する報道は禁じられていたが、5月10日に解禁になると全国の新聞は一斉に大本批判を繰り広げ、大本は陰謀団、妖教、国賊との汚名が広がる。これに対して大正日日新聞は当局の不法をなじり、事件を法難とし、大本擁護の論陣を張った。<ref name="B195401c2354" /> | ||
5月25日、王仁三郎は社長を退任し、[[上滝七五郎]]が就任した。しかし社会の誤解は拭えず、また当局の圧迫が増して経営はいよいよ困難となり、7月21日には[[高木鉄男]]が社長となる。8月3日には本社を梅田から淀川の河畔の天満筋四丁目に移転。11月24日には[[御田村竜吉]]が社長となる。そしてついに大正11年7月15日、大正日日新聞社は[[床次正広]](政治家の[[床次竹二郎]] | 5月25日、王仁三郎は社長を退任し、[[上滝七五郎]]が就任した。しかし社会の誤解は拭えず、また当局の圧迫が増して経営はいよいよ困難となり、7月21日には[[高木鉄男]]が社長となる。8月3日には本社を梅田から淀川の河畔の天満筋四丁目に移転。11月24日には[[御田村竜吉]]が社長となる。そしてついに大正11年7月15日、大正日日新聞社は[[床次正広]](政治家の[[床次竹二郎]]の弟)<ref>床次正広は後に大本に入信した。出口京太郎『[[巨人出口王仁三郎]]』p220「床次の弟の正広は大正日日新聞社を王仁三郎から買い取った人だが、のちには大本ヘ入信している」</ref>に譲られ、大本との関係が絶たれた。<ref name="B195401c2354" /> <ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c5423|文書宣伝}}」には異なることが書いてある。大正日日新聞社を「聖師は一九二三(大正一二)年三月一日一切の権限を池沢原治郎に委任した。池沢は「大正日日新聞」の名義および設備・備品等の使用料を納めることなどの契約で米田誠夫に貸した。米田は大正一二年三月二八日より同紙を発行していたが契約を履行しなかったため、昭和七年二月に上野音次郎が委任をうけ、池沢への委任を解いた。上野は昭和七年四月一日、「大正日日新聞」の休刊の手続をとり、あらためて復刊する準備をすすめた。」(この池沢原治郎は大正10年8月に「大正日日新聞社編輯長」の肩書きで『飽まで天下と戦はむ』という本を大正日日新聞社から出している。[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/913641 国立国会図書館デジタルコレクション])</ref> <ref>霊界物語{{rm|33|16|暗夜の歌}}(大正11年8月28日口述)の章末に「本日'''大正日々新聞社長 床次正広'''氏湯ケ島へ来訪即日帰阪す」とある。</ref> | ||
しかし多額の債務が残った。社債49万9400円と借入金13万9619円である。大正10年(1921年)11月の会議の報告によると、本部の毎月の経常費は一ヶ月平均、支出が5310円、収入が2120円で、毎月3190円の赤字を出していた。そのような状況下での債務返済は困難であり、債権者から提訴され、聖地の土地・建物の差し押さえの危機にも遭ったが、信者の献金や出口家の財産の処分などで、巨額の債務問題は何とか落着した。<ref>『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195401c4443|債務の整理}}」</ref> | しかし多額の債務が残った。社債49万9400円と借入金13万9619円である。大正10年(1921年)11月の会議の報告によると、本部の毎月の経常費は一ヶ月平均、支出が5310円、収入が2120円で、毎月3190円の赤字を出していた。そのような状況下での債務返済は困難であり、債権者から提訴され、聖地の土地・建物の差し押さえの危機にも遭ったが、信者の献金や出口家の財産の処分などで、巨額の債務問題は何とか落着した。<ref>『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195401c4443|債務の整理}}」</ref> | ||
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自分は大正日日の負債数十万円の請求に、攻めつけられた際も、平然として第二の計画に取かかり天恩郷を築き上げた。|{{kgm|278|過去の失敗}} }} | 自分は大正日日の負債数十万円の請求に、攻めつけられた際も、平然として第二の計画に取かかり天恩郷を築き上げた。|{{kgm|278|過去の失敗}} }} | ||
== | == 関連資料 == | ||
* 大正日日新聞(大本七十年史 上巻) | |||
** {{obc|B195401c2351|日刊新聞の経営}} | |||
** {{obc|B195401c2352|新聞の論調}} | |||
** {{obc|B195401c2353|新聞と信者の立場}} | |||
** {{obc|B195401c2354|抵抗と閉社}} | |||
* {{pid|2933374/1/100|新聞史話 : 生態と興亡}}p.192「大正日日新聞」、内川芳美・著、昭和42年(1967年)、社会思想社 | |||
* [https://www.sagalibdb.jp/komonjo/detail?id=42452 大正日日新聞創刊時の広告] - 佐賀県立図書館データベース | |||
== 関連項目 == | == 関連項目 == | ||
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== 外部リンク == | == 外部リンク == | ||
* | * {{kb|大正日日新聞}}、{{wp|大正日日新聞}} | ||
* | * {{kb|白虹事件}}、{{wp|白虹事件}} | ||
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* | * {{kb|藤村義朗}}、{{wp|藤村義朗 (政治家)}} | ||
* | * {{kb|床次竹二郎}}、{{wp|床次竹二郎}} | ||
== 脚注 == | |||
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