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* [[大峠]]の際に、大洪水と大地震が続いた日数は567日。<ref>{{rm|6|15|大洪水(一)}}:「雨は頻りに降りきたり、前後を通じて五百六十七日の、大洪水と大地震」</ref> | * [[大峠]]の際に、大洪水と大地震が続いた日数は567日。<ref>{{rm|6|15|大洪水(一)}}:「雨は頻りに降りきたり、前後を通じて五百六十七日の、大洪水と大地震」</ref> | ||
* [[大本讃美歌]](霊界物語[[第61巻]]・[[第62巻]])の歌の数は567。ただし最後の歌は「第五六七の一」と「第五六七の二」の2篇ある。 | * [[大本讃美歌]](霊界物語[[第61巻]]・[[第62巻]])の歌の数は567。ただし最後の歌は「第五六七の一」と「第五六七の二」の2篇ある。 | ||
− | * [[霊界物語]]の通巻章番号567は{{rm|14|17|一寸一服}}である。この章は第4篇「[[五六七号]] | + | * [[霊界物語]]の通巻章番号567は{{rm|14|17|一寸一服}}である。この章は第4篇「[[五六七号]]」に属する。またこの第14巻は旧暦2月25日・26日・27日の三日間で口述したが、日付の一桁目が5・6・7になっている。 |
* 綾部の[[五六七殿]]は567畳敷きだった。<ref>『惟神の道』「{{obc|B123900c105|天意に順応せよ}}」:「綾部及び亀岡における建造物はみな余がこの蟇目の法によって天柱に繋いで居るのである。綾部のミロク殿は'''五百六十七畳敷き'''一間の建物でずいぶん繋ぐのに困難を感じた」</ref> <ref>『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c2323|綾部神苑の拡張と整備}}」:「五六七殿は一九一九(大正八)年四月三日に地鎮祭をおこない、翌年の二月に竣工している。それは建坪四四四坪よりなる瓦ぶきの拝殿で、なかに六本の太柱を用い、広間は五二〇畳敷、上段の室をくわえて合計'''五六七畳敷'''のおおきな建物である」</ref> | * 綾部の[[五六七殿]]は567畳敷きだった。<ref>『惟神の道』「{{obc|B123900c105|天意に順応せよ}}」:「綾部及び亀岡における建造物はみな余がこの蟇目の法によって天柱に繋いで居るのである。綾部のミロク殿は'''五百六十七畳敷き'''一間の建物でずいぶん繋ぐのに困難を感じた」</ref> <ref>『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c2323|綾部神苑の拡張と整備}}」:「五六七殿は一九一九(大正八)年四月三日に地鎮祭をおこない、翌年の二月に竣工している。それは建坪四四四坪よりなる瓦ぶきの拝殿で、なかに六本の太柱を用い、広間は五二〇畳敷、上段の室をくわえて合計'''五六七畳敷'''のおおきな建物である」</ref> | ||
− | * | + | * 王仁三郎は'''昭和3年(1928年)3月3日(旧2月12日)に満56歳7ヵ月を迎えた'''。明治4年(1871年)7月12日<ref>この当時は旧暦。</ref>生誕として、旧暦で数えて満56歳7ヵ月になる。 |
* 王仁三郎は昭和23年(1948年)1月19日(旧12月9日)に昇天したが、旧暦で数えると、約76歳5ヶ月(厳密には76歳5ヶ月に3日足りない)で昇天したことになる。 | * 王仁三郎は昭和23年(1948年)1月19日(旧12月9日)に昇天したが、旧暦で数えると、約76歳5ヶ月(厳密には76歳5ヶ月に3日足りない)で昇天したことになる。 | ||
− | * 昭和3年3月3日の[[五六七大祭]]で供えられた玉串料は567円だった。その翌日、[[高熊山]]に登山参拝した人数は567人だった。<ref>『[[大本史料集成]] 2』「{{obc|B195502c21021|みろく大祭報告並びに概況 概況}}」</ref> | + | * 昭和3年3月3日の[[五六七大祭]]で供えられた玉串料は567円だった。その翌日、[[高熊山]]に登山参拝した人数は567人だった。<ref>『[[真如の光]]』昭和3年(1928年)3月15日号「みろく大祭概況」p14-15</ref> <ref>『[[大本史料集成]] 2』「{{obc|B195502c21021|みろく大祭報告並びに概況 概況}}」</ref> |
* 王仁三郎は山科刑務所の中で甘い物を買って「大神」という人と「567番」の人に与え連絡係に使っていた。<ref>『[[新月の光]]』0276「五六七と大神」:「山科刑務所の中では、毎日飴やいろいろの甘い物を買われては、既決囚で中の当番であった「大神」という人と「五百六十七番」の人に与えられて連絡係に使われた。この二人は入所中の大本の被告に拇指を見せて「大将が心配するなといっています」といった具合で連絡をしたのである」</ref> | * 王仁三郎は山科刑務所の中で甘い物を買って「大神」という人と「567番」の人に与え連絡係に使っていた。<ref>『[[新月の光]]』0276「五六七と大神」:「山科刑務所の中では、毎日飴やいろいろの甘い物を買われては、既決囚で中の当番であった「大神」という人と「五百六十七番」の人に与えられて連絡係に使われた。この二人は入所中の大本の被告に拇指を見せて「大将が心配するなといっています」といった具合で連絡をしたのである」</ref> | ||
* 六六六の天の六からヽが一つ地に下りて五となり、地は七になり、五六七となった。世の元から言えばミロクは六六六で、今の世の立直しの御用から言えばミロクは五六七である。<ref>{{is|22|大正8年2月18日}}</ref> | * 六六六の天の六からヽが一つ地に下りて五となり、地は七になり、五六七となった。世の元から言えばミロクは六六六で、今の世の立直しの御用から言えばミロクは五六七である。<ref>{{is|22|大正8年2月18日}}</ref> | ||
* 五は火、六は水、七は土の意義がある。<ref>{{is|13|大正7年12月23日}}:「五は天の数で火と云ふ意義であつて、火の字の端々に○を加へて五の○となる(略)六は地の数で水と云ふ意義であつて、水の字の端々に○を加へて六の○となる(略)七は地成の数で、土也成の意義であつて」</ref> | * 五は火、六は水、七は土の意義がある。<ref>{{is|13|大正7年12月23日}}:「五は天の数で火と云ふ意義であつて、火の字の端々に○を加へて五の○となる(略)六は地の数で水と云ふ意義であつて、水の字の端々に○を加へて六の○となる(略)七は地成の数で、土也成の意義であつて」</ref> | ||
* [[伊都能売神諭]]には、[[スペイン風邪]]で死亡した人の数は全世界で567万人と書いてある<ref>スペイン風邪の死者数は諸説ある。全世界で4千万人とも5千万人とも言われ、1億人という説もある。[http://idsc.nih.go.jp/disease/influenza/pandemic/QA02.html 国立感染症研究所感染症情報センター]</ref>。また[[第一次世界大戦]]の戦死者及び重軽傷者の数は5670万人だと書いてある<ref>第一次世界大戦の死者数・負傷者数は諸説あるが、戦死者は1600万人以上、負傷者は2100万人以上いるようである。<wp>第一次世界大戦の犠牲者</wp></ref>。<ref>{{is|13|大正7年12月23日}}:「世界風邪で斃れる人民が、全世界で五百六十七万人であり五年に渡る大戦争中に戦死者重軽傷者死者が又た五千六百七十万人であろうがな」</ref> | * [[伊都能売神諭]]には、[[スペイン風邪]]で死亡した人の数は全世界で567万人と書いてある<ref>スペイン風邪の死者数は諸説ある。全世界で4千万人とも5千万人とも言われ、1億人という説もある。[http://idsc.nih.go.jp/disease/influenza/pandemic/QA02.html 国立感染症研究所感染症情報センター]</ref>。また[[第一次世界大戦]]の戦死者及び重軽傷者の数は5670万人だと書いてある<ref>第一次世界大戦の死者数・負傷者数は諸説あるが、戦死者は1600万人以上、負傷者は2100万人以上いるようである。<wp>第一次世界大戦の犠牲者</wp></ref>。<ref>{{is|13|大正7年12月23日}}:「世界風邪で斃れる人民が、全世界で五百六十七万人であり五年に渡る大戦争中に戦死者重軽傷者死者が又た五千六百七十万人であろうがな」</ref> | ||
+ | * 大本の分所支部の数が567ヶ所に達したのは、昭和3年(1928年)2月3日(この年の節分は2月4日だったのでその前日になる)の午後3時である。その567番目はメキシコ支部である。<ref>『[[真如の光]]』昭和3年(1928年)2月15日号(節分大祭号)「分所支部長会 会長の挨拶」p137。566番目は熊本県の津奈木(つなぎ)支部であり「メキシコが大本の光に包まれ日本と手つなぎ出来たのは決して偶然では無いと思はして戴きます」と書いてある。</ref> | ||
* 567を「コロナ」と読むことができる。ただし王仁三郎はそのような読み方はしていない。 | * 567を「コロナ」と読むことができる。ただし王仁三郎はそのような読み方はしていない。 | ||
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567は、仏教の弥勒下生思想に因む数字である。釈迦滅後56億7千万年後に弥勒菩薩が地上に下り衆生を済度するという思想から、王仁三郎は567という数字に特別な意味を持たせた。
567
567にまつわる事柄は次のものがある。
- ミロク。 →「五六七」
- 王仁三郎が霊界探検の際に、女神の姿に変化して半紙に書いた書物の冊数は567冊。[1]
- 霊界物語の口述を始めた最初は、567節(567章)で完成させる予定だった。[2]
- 大峠の際に、大洪水と大地震が続いた日数は567日。[3]
- 大本讃美歌(霊界物語第61巻・第62巻)の歌の数は567。ただし最後の歌は「第五六七の一」と「第五六七の二」の2篇ある。
- 霊界物語の通巻章番号567は第14巻第17章「一寸一服」#である。この章は第4篇「五六七号」に属する。またこの第14巻は旧暦2月25日・26日・27日の三日間で口述したが、日付の一桁目が5・6・7になっている。
- 綾部の五六七殿は567畳敷きだった。[4] [5]
- 王仁三郎は昭和3年(1928年)3月3日(旧2月12日)に満56歳7ヵ月を迎えた。明治4年(1871年)7月12日[6]生誕として、旧暦で数えて満56歳7ヵ月になる。
- 王仁三郎は昭和23年(1948年)1月19日(旧12月9日)に昇天したが、旧暦で数えると、約76歳5ヶ月(厳密には76歳5ヶ月に3日足りない)で昇天したことになる。
- 昭和3年3月3日の五六七大祭で供えられた玉串料は567円だった。その翌日、高熊山に登山参拝した人数は567人だった。[7] [8]
- 王仁三郎は山科刑務所の中で甘い物を買って「大神」という人と「567番」の人に与え連絡係に使っていた。[9]
- 六六六の天の六からヽが一つ地に下りて五となり、地は七になり、五六七となった。世の元から言えばミロクは六六六で、今の世の立直しの御用から言えばミロクは五六七である。[10]
- 五は火、六は水、七は土の意義がある。[11]
- 伊都能売神諭には、スペイン風邪で死亡した人の数は全世界で567万人と書いてある[12]。また第一次世界大戦の戦死者及び重軽傷者の数は5670万人だと書いてある[13]。[14]
- 大本の分所支部の数が567ヶ所に達したのは、昭和3年(1928年)2月3日(この年の節分は2月4日だったのでその前日になる)の午後3時である。その567番目はメキシコ支部である。[15]
- 567を「コロナ」と読むことができる。ただし王仁三郎はそのような読み方はしていない。
1567
- 第一次世界大戦の日数が1567日だと伊都能売神諭や霊界物語に書いてある[16] [17]。一般に戦争期間はオーストリア=ハンガリーがセルビアに宣戦布告した大正3年(1914年)7月28日から、ドイツが休戦協定に調印した大正7年(1918年)11月11日までとされており、初日を含まない日数(つまり満日数[18])が1567日になる。
- 霊界物語の通巻章番号1567は第61巻第17章「神月」#である。
56億7千万
- 天地剖判から56億7千万を経て五六七神政が成就される。その年は昭和3年(1928年)である。[19] [20]
- 神示の宇宙によると、この大宇宙には、太陽系宇宙のような小宇宙が56億7千万個ある。われわれが住む小宇宙の高さは、縦・横ともに56億7千万里ある[21]。[22]
- 現界の56億7千万年は、神界の3千年である。[23]
関連項目
脚注
- ↑ 第1巻第9章「雑草の原野」#:「自分は立派な女神の姿に変化したままで、一生懸命に半紙にむかつて機械的に筆をはしらす。ずゐぶん長い時間であつたが、冊数はたしかに五百六十七であつたやうに思ふ。そこへにはかに何物かの足音が聞えたと思ふまもなく、前の「中」といふ鬼が現はれ、槍の先に数十冊づつ突き刺し、をりからの暴風目がけ中空に散乱させてしまうた」
- ↑ 第8巻序文#:「総じてこの霊界物語は、口述の最初に当り五百六十七節にて完成する考へを以て、一冊を五十節に刻み全十二冊の予定のところ、到底是にてはその一部分をも講了すべからざるを覚り、本巻よりは一冊五十章組の規定を破り、口の車の行き突きばつたりに歩を進むる事と致しました」
- ↑ 第6巻第15章「大洪水(一)」#:「雨は頻りに降りきたり、前後を通じて五百六十七日の、大洪水と大地震」
- ↑ 『惟神の道』「天意に順応せよ#」:「綾部及び亀岡における建造物はみな余がこの蟇目の法によって天柱に繋いで居るのである。綾部のミロク殿は五百六十七畳敷き一間の建物でずいぶん繋ぐのに困難を感じた」
- ↑ 『大本七十年史 上巻』「綾部神苑の拡張と整備#」:「五六七殿は一九一九(大正八)年四月三日に地鎮祭をおこない、翌年の二月に竣工している。それは建坪四四四坪よりなる瓦ぶきの拝殿で、なかに六本の太柱を用い、広間は五二〇畳敷、上段の室をくわえて合計五六七畳敷のおおきな建物である」
- ↑ この当時は旧暦。
- ↑ 『真如の光』昭和3年(1928年)3月15日号「みろく大祭概況」p14-15
- ↑ 『大本史料集成 2』「みろく大祭報告並びに概況 概況#」
- ↑ 『新月の光』0276「五六七と大神」:「山科刑務所の中では、毎日飴やいろいろの甘い物を買われては、既決囚で中の当番であった「大神」という人と「五百六十七番」の人に与えられて連絡係に使われた。この二人は入所中の大本の被告に拇指を見せて「大将が心配するなといっています」といった具合で連絡をしたのである」
- ↑ 伊都能売神諭 大正8年2月18日#
- ↑ 伊都能売神諭 大正7年12月23日#:「五は天の数で火と云ふ意義であつて、火の字の端々に○を加へて五の○となる(略)六は地の数で水と云ふ意義であつて、水の字の端々に○を加へて六の○となる(略)七は地成の数で、土也成の意義であつて」
- ↑ スペイン風邪の死者数は諸説ある。全世界で4千万人とも5千万人とも言われ、1億人という説もある。国立感染症研究所感染症情報センター
- ↑ 第一次世界大戦の死者数・負傷者数は諸説あるが、戦死者は1600万人以上、負傷者は2100万人以上いるようである。第一次世界大戦の犠牲者 - ウィキペディア
- ↑ 伊都能売神諭 大正7年12月23日#:「世界風邪で斃れる人民が、全世界で五百六十七万人であり五年に渡る大戦争中に戦死者重軽傷者死者が又た五千六百七十万人であろうがな」
- ↑ 『真如の光』昭和3年(1928年)2月15日号(節分大祭号)「分所支部長会 会長の挨拶」p137。566番目は熊本県の津奈木(つなぎ)支部であり「メキシコが大本の光に包まれ日本と手つなぎ出来たのは決して偶然では無いと思はして戴きます」と書いてある。
- ↑ 伊都能売神諭 大正7年12月23日#:「独逸へ渡りた八頭八尾の守護神は、大きな世界の戦を始めた其の間の日数が千と五百六十七日」
- ↑ 第64巻上第15章「大相撲」#:「さうしてヨハネの教祖は先達の世界戦争の開戦期間の日数一千五百六十七日を終り平和条約が締結された其朝、即ち自転倒島で云へば大正七年(旧)十月三日の朝昇天されました」
- ↑ たとえば7/28から7/30までなら、3日ではなく2日と数える。
- ↑ 第3巻第50章「安息日」#:「かくして五十六億七千万年を経て、五六七の神政まつたく成就され、天主の経綸の聖代がくるのである」
- ↑ 水鏡「五十六億七千万年」#:「今年、即ち昭和三年辰年は、此世初まつてから、五十六億七千万年目に相当する年である」
- ↑ 仮に1里=4kmで計算すると56億7千万里は226億8千万kmになる。太陽系の一番外側の惑星である海王星の公転直径は約90億km、その外側を回る準惑星の冥王星の公転直径は約118億kmである。
- ↑ 第4巻第46章「神示の宇宙 その一」#:「大宇宙には、斯くの如き小宇宙の数は、神示によれば、五十六億七千万宇宙ありといふ」「我が小宇宙の高さは、縦に五十六億七千万里あり、横に同じく、五十六億七千万里あり」
- ↑ 第40巻第14章「空川」#:カルのセリフ「神界で三千年と言へば現界で云ふ五十六億七千万年の事だから、神界の一分間が娑婆の五六年に当るだらう」