「9月8日」の版間の差分
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* 「二十九歳の秋'''九月八日'''更に聖地[[桶伏山]]に[[坤金神]][[豊国主命]]と現はれ」〔{{rm|nm|8|聖雄と英雄}}〕<ref>王仁三郎の二度目の参綾(大本入り)は明治32年(1899年)7月3日(旧5月26日)である。「[[大本年表]]」を見る限りは、この年の新9月8日も旧9月8日も何があったかは記録されていない。</ref> | * 「二十九歳の秋'''九月八日'''更に聖地[[桶伏山]]に[[坤金神]][[豊国主命]]と現はれ」〔{{rm|nm|8|聖雄と英雄}}〕<ref>王仁三郎の二度目の参綾(大本入り)は明治32年(1899年)7月3日(旧5月26日)である。「[[大本年表]]」を見る限りは、この年の新9月8日も旧9月8日も何があったかは記録されていない。</ref> | ||
* 明治34年(1901年)10月19日('''旧9月8日''')、[[出口直]]は[[弥仙山]]で岩戸籠もりをする。 →「[[弥仙山岩戸籠もり]]」 | * 明治34年(1901年)10月19日('''旧9月8日''')、[[出口直]]は[[弥仙山]]で岩戸籠もりをする。 →「[[弥仙山岩戸籠もり]]」 | ||
− | * 大正5年(1916年)10月5日(旧9月9日)に出た筆先によって、[[出口直]]は[[見真実]]に達した。前日10月4日('''旧9月8日''')までは[[未見真実]]だった。<ref>{{rm09|7|0003|総説}}:「また教祖が明治二十五年より、大正五年旧九月八日まで筆先を書かれたのは、全部御修行時代の産物であり、矛盾のあることは、教祖自筆の同年九月九日の御筆先を見れば判然します」</ref> | + | * 大正5年(1916年)10月5日(旧9月9日)に出た筆先によって、[[出口直]]は[[見真実]]に達した。前日10月4日('''旧9月8日''')までは[[未見真実]]だった。<ref>{{rm09|7|0003|総説}}:「また教祖が明治二十五年より、大正五年旧九月八日まで筆先を書かれたのは、全部御修行時代の産物であり、矛盾のあることは、教祖自筆の同年九月九日の御筆先を見れば判然します」</ref> →「[[神島開き]]」参照 |
* 大正13年(1924年)10月6日('''旧9月8日''')、[[王仁三郎]]は獄中から指示を出し、[[五六七殿]]の太鼓の打ち方を七五三から五六七に変更させた。<ref>{{rm09|68|0001|序文}}:「大正甲子は古来稀なる変つた年であつた(略)又五六七殿の七五三の太鼓は甲子九月八日より五六七と打つ事になり」</ref> | * 大正13年(1924年)10月6日('''旧9月8日''')、[[王仁三郎]]は獄中から指示を出し、[[五六七殿]]の太鼓の打ち方を七五三から五六七に変更させた。<ref>{{rm09|68|0001|序文}}:「大正甲子は古来稀なる変つた年であつた(略)又五六七殿の七五三の太鼓は甲子九月八日より五六七と打つ事になり」</ref> | ||
* 昭和20年(1945年)'''9月8日'''(旧8月3日、土曜日)、[[第二次大本事件]]の大審院判決が下り(上告棄却で二審判決が確定)、第二次大本事件が終結した。 | * 昭和20年(1945年)'''9月8日'''(旧8月3日、土曜日)、[[第二次大本事件]]の大審院判決が下り(上告棄却で二審判決が確定)、第二次大本事件が終結した。 | ||
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9月8日は、「九月八日の仕組」という、大本において特別な意味を持つ日。
9月9日[1]は菊の節句であり、9月8日はこれに一日先立つ日であり、何事も世の中に先端を切り、これから起きることを先に覚って実行しようという意味を持つ。これを「九月八日の仕組」と呼ぶ。[2] [3]
- 大正10年(1921年)10月8日(旧9月8日)、王仁三郎に神命が降り、十日後の10月18日から霊界物語の口述を開始した。
- 昭和6年(1931年)9月8日(旧7月26日)、王仁三郎は本宮山の山頂に3基の碑石(神声碑、教碑、歌碑)を建てた。その十日後の9月18日に満州事変が勃発した。
- 「九月八日の九はツクシであり、月はミロクであり、八は開く、日は輝くの意味で、梅で開いて松で治めるといふ意義である。九月とは松で治める意義、八日とは梅で開く意義である」〔第7巻総説#〕
- 霊界物語第16巻で、由良の港の秋山彦の館に現れた神素盞嗚大神・国武彦の2人に、英子姫・悦子姫が面会したのは、辛酉の年の9月8日である。亀彦が面会したのは翌9月9日である。[4] [5] [6]
- 霊界物語第26巻で、竜宮島から麻邇宝珠の5個の玉が八咫烏によって由良の秋山彦の館に到着したのは、甲子の年(辛酉から3年後)の9月8日である。[5]
- 霊界物語第33巻で、高姫・鷹依姫・黒姫・竜国別の4人が沓島から麻邇宝珠の4個の玉を持ち帰り[7]、錦の宮に奉納したのは、9月8日である。[8]
- 霊界物語第65巻で玉国別一行がゲッセマネの園で七福神を演じた日、あるいは玉照彦・玉照姫がエルサレムの宮で婚礼の式を挙げた日は、9月8日である。[9]
- 「辛の酉の紀元節、四四十六の花の春、世の立替立直し、凡夫の耳も菊の年、九月八日のこの仕組」〔伊都能売神諭 大正8年1月27日#〕
- 「二十九歳の秋九月八日更に聖地桶伏山に坤金神豊国主命と現はれ」〔入蒙記第8章「聖雄と英雄」#〕[10]
- 明治34年(1901年)10月19日(旧9月8日)、出口直は弥仙山で岩戸籠もりをする。 →「弥仙山岩戸籠もり」
- 大正5年(1916年)10月5日(旧9月9日)に出た筆先によって、出口直は見真実に達した。前日10月4日(旧9月8日)までは未見真実だった。[11] →「神島開き」参照
- 大正13年(1924年)10月6日(旧9月8日)、王仁三郎は獄中から指示を出し、五六七殿の太鼓の打ち方を七五三から五六七に変更させた。[12]
- 昭和20年(1945年)9月8日(旧8月3日、土曜日)、第二次大本事件の大審院判決が下り(上告棄却で二審判決が確定)、第二次大本事件が終結した。
- 昭和26年(1951年)9月8日、サンフランシスコ講和条約が調印され、戦争が終結した。
- 昭和18年(1943年)9月8日、イタリアは連合軍に降伏した。
- 昭和10年(1935年)に天恩郷に建立予定で碑石に刻まれた三大学則の碑文は、王仁三郎が9月8日に書いた。碑文の最後に「昭和十年九月八日 王仁識之」とある。この碑石は第二次大本事件で破壊されてしまったが、その拓本を使い昭和28年(1953年)4月18日に学則碑が建立された。[13]
関連項目
外部リンク
- 『出口王仁三郎全集 第五巻』「九月八日の仕組#」 - 霊界物語ネット
- 9月8日 - ウィキペディア
- 旧暦9月8日 - ウィキペディア
- サンフランシスコ講和条約 - コトバンク
- 日本国との平和条約 - ウィキペディア
脚注
- ↑ 9月9日はバラモン教の祭典日である。第16巻第9章「法螺の貝」#:「バラモン教の祭壇を 半祭つた其儘に 厭な便りを菊月の 苦しみ藻掻く九月九日」、鬼雲彦のセリフ「今日は実に目出度き菊見の宴、バラモン教が祭典日に犠牲を奉らむと」
- ↑ 『出口王仁三郎全集 第五巻』「九月八日の仕組#」
- ↑ 水鏡「神命と実行」#:「大本の事は、九月八日の仕組で、世間に先だつて、リードするのであるから、一日後れると世間並になつて仕舞ふ」
- ↑ 第16巻第4章「夢か現か」#:亀彦の歌「父の便りを菊月の 九月八日の今朝の秋 目と目に物を云はせつつ 二人の女は静々と 奥の間さして入りにける」、「玄関に佇みし亀彦は、さし上る朝日に向つて合掌し」(朝日が昇り翌日になっている)、第16巻第5章「秋山館」#:「君の便りを菊月の 上九日の菊の宴 親子主従めぐり会ひ」
- ↑ 5.0 5.1 第26巻第2章「真心の花(一)」#:秋山彦の歌「今日は如何なる吉日ぞや 九月八日の秋の空(略)竜宮島の麻邇の玉 己が館に入りましぬ」、紅葉姫の歌「月日の駒はいと早く 思ひ返せば満三年 辛酉の菊月の 八日に吾館に出でましし 神素盞嗚大神の 尊き御影を拝してゆ(略)又もや廻り甲子の 九月八日の今日の空」
- ↑ 霊界物語第16巻・第26巻を口述したのは大正11年(1922年)で壬戌(みずのえいぬ)の年である。第一次大本事件が起き霊界物語の口述を開始した大正10年(1921年)が辛酉(かのととり)で、入蒙した大正13年(1924年)が甲子(きのえね)になる。
- ↑ 第33巻第17章「感謝の涙」#の章末で4人は秋山彦から、紛失した麻邇宝珠の4個の玉の隠し場所を教えられていた。
- ↑ 第33巻第18章「神風清」#:「明くれば九月八日、高姫、鷹依姫、黒姫、竜国別の四人は嬉々として、麻邇の宝珠を捧じ、錦の宮の八尋殿指して帰り来り」
- ↑ 第65巻第26章「七福神」#:「照り輝きし玉照姫や、暗をも照らす玉照彦二柱、九月八日の慶びを」
- ↑ 王仁三郎の二度目の参綾(大本入り)は明治32年(1899年)7月3日(旧5月26日)である。「大本年表」を見る限りは、この年の新9月8日も旧9月8日も何があったかは記録されていない。
- ↑ 第7巻総説#:「また教祖が明治二十五年より、大正五年旧九月八日まで筆先を書かれたのは、全部御修行時代の産物であり、矛盾のあることは、教祖自筆の同年九月九日の御筆先を見れば判然します」
- ↑ 第68巻序文#:「大正甲子は古来稀なる変つた年であつた(略)又五六七殿の七五三の太鼓は甲子九月八日より五六七と打つ事になり」
- ↑ 『大本七十年史 下巻』「本部での動き#」、『大本七十年史 下巻』「造営#」