「台湾」の版間の差分
Jump to navigation
Jump to search
(→ギャラリー) |
|||
(同じ利用者による、間の5版が非表示) | |||
3行目: | 3行目: | ||
[[ファイル:昭和9年頃の台湾の地図(山影).jpg|thumb|昭和9年(1934年)頃の台湾の地図。]] | [[ファイル:昭和9年頃の台湾の地図(山影).jpg|thumb|昭和9年(1934年)頃の台湾の地図。]] | ||
+ | [[ファイル:昭和10年頃の台湾の地図(台湾鉄道旅行案内).jpg|thumb|昭和10年(1935年)頃の台湾の地図。]] | ||
+ | [[ファイル:昭和10年頃の台湾の鉄道線路図(台湾鉄道旅行案内).jpg|thumb|昭和10年(1935年)頃の台湾の鉄道線路図。]] | ||
'''台湾'''(たいわん)は、島または国。明治28年(1895年)から昭和20年(1945年)まで50年間、日本領であった。現在政治上は日本とは別の国(中華民国)であるが、雛型論で言うと台湾は日本(日本列島)の一部であり、南米大陸(霊界物語では[[高砂島]])の胞衣(雛型)である。 | '''台湾'''(たいわん)は、島または国。明治28年(1895年)から昭和20年(1945年)まで50年間、日本領であった。現在政治上は日本とは別の国(中華民国)であるが、雛型論で言うと台湾は日本(日本列島)の一部であり、南米大陸(霊界物語では[[高砂島]])の胞衣(雛型)である。 | ||
31行目: | 33行目: | ||
* [[出口直]]の二男・[[出口清吉]](明治5年生まれ)は、徴兵により明治25年、東京の近衛師団に入隊する。明治28年、台湾が日本の植民地になると、近衛師団は台湾鎮定のため派兵され、清吉も出征するが、7月あるいは8月に台湾で戦死する<ref>[[出口和明]]『[[入蒙秘話]]』p47-48によると、死亡日は資料により異なり、7月7日、8月16日、8月18日の3通りある。</ref>。しかし[[筆先]]には「清吉は死んでおらぬ」と出て、謎が残された。→「[[出口清吉]]」を見よ | * [[出口直]]の二男・[[出口清吉]](明治5年生まれ)は、徴兵により明治25年、東京の近衛師団に入隊する。明治28年、台湾が日本の植民地になると、近衛師団は台湾鎮定のため派兵され、清吉も出征するが、7月あるいは8月に台湾で戦死する<ref>[[出口和明]]『[[入蒙秘話]]』p47-48によると、死亡日は資料により異なり、7月7日、8月16日、8月18日の3通りある。</ref>。しかし[[筆先]]には「清吉は死んでおらぬ」と出て、謎が残された。→「[[出口清吉]]」を見よ | ||
* 台湾と[[琉球]]に関して、{{rm|51|16|暗闘}}に([[徳公]]のセリフ)「しまひには、只一つよりない'''大椀(台湾)'''まで逃出すかも知れぬぞ。何程'''琉球'''そに言うても、骨のない蒟蒻腰では駄目だ」ということが書いてある。 | * 台湾と[[琉球]]に関して、{{rm|51|16|暗闘}}に([[徳公]]のセリフ)「しまひには、只一つよりない'''大椀(台湾)'''まで逃出すかも知れぬぞ。何程'''琉球'''そに言うても、骨のない蒟蒻腰では駄目だ」ということが書いてある。 | ||
+ | |||
+ | == ギャラリー == | ||
+ | <gallery> | ||
+ | ファイル:日月潭とラル島.jpg|[[日月潭]]。平成19年(2007年)10月撮影。 | ||
+ | ファイル:明治時代の日月潭の地図.jpg|明治時代の日月潭の地図。 | ||
+ | </gallery> | ||
== 脚注 == | == 脚注 == | ||
45行目: | 53行目: | ||
== 関連項目 == | == 関連項目 == | ||
* [[台湾島]] | * [[台湾島]] | ||
+ | * [[日月潭]] | ||
* [[高木鉄男]]:台湾の明治製糖で専務取締役をしていたが、大本に入信して、職を辞し、大正2年(1913年)に綾部に移住した。大本の幹部。霊界物語筆録者の一人。 | * [[高木鉄男]]:台湾の明治製糖で専務取締役をしていたが、大本に入信して、職を辞し、大正2年(1913年)に綾部に移住した。大本の幹部。霊界物語筆録者の一人。 | ||
50行目: | 59行目: | ||
* <wp>台湾</wp> | * <wp>台湾</wp> | ||
* <wp>中華民国</wp> | * <wp>中華民国</wp> | ||
+ | * {{Pid|1233557|山影}}(画像参照) | ||
+ | * {{Pid|1875798|台湾鉄道旅行案内}}(画像参照) | ||
+ | * {{Pid|1122535|台湾鉄道旅行案内}} | ||
{{デフォルトソート:たいわん}} | {{デフォルトソート:たいわん}} | ||
[[Category:国]] | [[Category:国]] | ||
[[Category:島]] | [[Category:島]] |
2022年4月14日 (木) 02:34時点における最新版
この項目はまだ書きかけです。内容が不十分だったり不明瞭だったりします。
この項目では、現代の台湾について説明しています。霊界物語に登場する太古の台湾については「台湾島」をご覧ください。
台湾(たいわん)は、島または国。明治28年(1895年)から昭和20年(1945年)まで50年間、日本領であった。現在政治上は日本とは別の国(中華民国)であるが、雛型論で言うと台湾は日本(日本列島)の一部であり、南米大陸(霊界物語では高砂島)の胞衣(雛型)である。
目次
巡教概要
- 大正12年(1923年)出口澄子は台湾へ巡教。11月20日出発し、12月10日に帰綾する。
- 昭和2年(1927年)出口王仁三郎は台湾へ巡教。12月9日に出発。12月31日に那覇へ。奄美を回り、3年1月31日に帰亀。
- 昭和4年(1929年)出口日出麿は台湾へ巡教。2月10日に出発し、3月22日に帰綾。
- 昭和6年(1931年)王仁三郎と澄子は台湾へ巡教。5年12月29日出発。6年1月30日に帰亀。台湾滞在中、1月3日に台湾別院を設置。
- 昭和8年(1933年)王仁三郎は三度目の台湾巡教へ。8月9日出発。帰路、九州や四国を回り、9月15日に帰亀。台湾滞在中の8月12日、基隆分院を設置(9月24日に別院に昇格)。8月20日、台湾別院に憧憬歌碑を設置。8月24日、二水分院を設置。
- 昭和10年(1935年)王仁三郎は四度目の台湾巡教。3月6日出発。台湾各地の昭和神聖会本支部の発会式に臨席する。12日、台湾地方本部、台北。14日、台南。15日、高雄。17日、嘉義。19日、台中。20日、彰化。24日、花蓮港。26日、基隆の各支部。31日に帰亀。滞在中の3月21日に彰化分院を設置。
〔この項は特記ある場合を除き「大本年表」をもとに作成した〕
大正12年・出口澄子の巡教
昭和2年・王仁三郎の第1回巡教
昭和4年・出口日出麿の巡教
昭和6年・王仁三郎の第2回巡教
昭和8年・王仁三郎の第3回巡教
昭和10年・王仁三郎の第4回巡教
別院・歌碑
台湾には台北に「台湾別院」(昭和5年1月3日設置)が、基隆に「基隆別院」(昭和8年8月12日設置)があった。
台湾別院には「草山歌碑(憧憬歌碑)」(昭和8年8月8日建立)が、基隆別院には「基隆別院歌碑」(昭和8年9月20日建立)があった。
その他
- 出口直の二男・出口清吉(明治5年生まれ)は、徴兵により明治25年、東京の近衛師団に入隊する。明治28年、台湾が日本の植民地になると、近衛師団は台湾鎮定のため派兵され、清吉も出征するが、7月あるいは8月に台湾で戦死する[1]。しかし筆先には「清吉は死んでおらぬ」と出て、謎が残された。→「出口清吉」を見よ
- 台湾と琉球に関して、第51巻第16章「暗闘」#に(徳公のセリフ)「しまひには、只一つよりない大椀(台湾)まで逃出すかも知れぬぞ。何程琉球そに言うても、骨のない蒟蒻腰では駄目だ」ということが書いてある。
ギャラリー
日月潭。平成19年(2007年)10月撮影。
脚注
関連資料
- 『大本七十年史 上巻』「台湾の動き#」
- 『大本七十年史 下巻』「満州巡教と世界紅卍字会#」
- 『大本七十年史 下巻』「創立一周年#」
- 『大本七十年史 下巻』「聖師の巡教と歌碑#」
- 『大本七十年史 下巻』「海外へも波及#」
- 『大本七十年史 下巻』「海外派遣宣伝使の活動#」
関連項目
外部リンク
- 台湾 - ウィキペディア
- 中華民国 - ウィキペディア
- 国立国会図書館デジタルコレクション蔵書『山影』 PID:1233557(画像参照)
- 国立国会図書館デジタルコレクション蔵書『台湾鉄道旅行案内』 PID:1875798(画像参照)
- 国立国会図書館デジタルコレクション蔵書『台湾鉄道旅行案内』 PID:1122535