「十曜の神紋」の版間の差分
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[[ファイル:金光教の紋章.png|thumb|150px|金光教の紋章「八波(やつなみ)」]] | [[ファイル:金光教の紋章.png|thumb|150px|金光教の紋章「八波(やつなみ)」]] | ||
十曜紋が神紋と神定されるまで、[[大本]]に紋章はなかったようである。最初期の幹部・[[四方平蔵]]によると<ref name="Z9056">[[四方平蔵]]「{{obc|Z9056|聖師様御参綾と十曜の神紋}}」</ref>、それまで[[裏町]]の土蔵の二階を広間としていたが、[[上田喜三郎]](王仁三郎)が再度参綾し(明治32年7月3日)大本入りが決まった後、[[本町]]の[[中村竹蔵]]の家を借りて広前とし、そこを[[金明会]]本部とすることにした。その遷座祭を執り行うに当たり、高張提灯(長い竿の先に大型の提灯を取り付けたもの)を一対新調することにした。四方は教祖([[出口直]])に、どのような紋にしたらいいか伺ったところ、教祖は「[[金光教]] | 十曜紋が神紋と神定されるまで、[[大本]]に紋章はなかったようである。最初期の幹部・[[四方平蔵]]によると<ref name="Z9056">[[四方平蔵]]「{{obc|Z9056|聖師様御参綾と十曜の神紋}}」</ref>、それまで[[裏町]]の土蔵の二階を広間としていたが、[[上田喜三郎]](王仁三郎)が再度参綾し(明治32年7月3日)大本入りが決まった後、[[本町]]の[[中村竹蔵]]の家を借りて広前とし、そこを[[金明会]]本部とすることにした。その遷座祭を執り行うに当たり、高張提灯(長い竿の先に大型の提灯を取り付けたもの)を一対新調することにした。四方は教祖([[出口直]])に、どのような紋にしたらいいか伺ったところ、教祖は「[[金光教]]は八波(やつなみ)(後述)だが<ref>当時の大本は、王仁三郎が大本入りするまでは金光教の傘下として活動していた。</ref>、私の紋は九曜だ」と答えた。そこで紋章として九曜紋を使うことが決まり<ref>[[出口和明]]も〈この時まで、大本に神紋はなかったと思われる。だが[[金明会]]発足に当たって、直が神に伺って、九曜といったんは定めたのであろう。〉と推測している。〔『[[いり豆の花]]』502頁下段〕</ref>、四方は提灯屋へ九曜紋で提灯を発注した。 | ||
7月10日(旧6月3日)遷座祭当日、四方は出来上がった提灯を見ると、何故か九曜ではなく十曜になっていた。四方はそのことを教祖に報告した。教祖は神に伺い「都合があって神様が十曜にさせた」ということだった。これによって大本の神紋は十曜に定まった。 | 7月10日(旧6月3日)遷座祭当日、四方は出来上がった提灯を見ると、何故か九曜ではなく十曜になっていた。四方はそのことを教祖に報告した。教祖は神に伺い「都合があって神様が十曜にさせた」ということだった。これによって大本の神紋は十曜に定まった。 | ||