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== 久兵衛池事件 == | == 久兵衛池事件 == | ||
久兵衛池事件とは、上田喜三郎が15歳の時、自宅にある久兵衛池の埋め立てをめぐり上田家と村人たちが対立した事件である。王仁三郎の自叙伝「[[本教創世記]]」の第1章末尾に「追記」として記されている。 | 久兵衛池事件とは、上田喜三郎が15歳の時、自宅にある久兵衛池の埋め立てをめぐり上田家と村人たちが対立した事件である。王仁三郎の自叙伝「[[本教創世記]]」の第1章末尾に「追記」として記されている。 | ||
* 『[[出口王仁三郎著作集]] 第一巻』所収{{obc|B195301c07|「本教創世記」第一章}} - 霊界物語ネット | |||
この池は敷地の坤の方位にあるため、裏鬼門の祟りで、上田家の女が七人、溺れて死んだ。上田家以外も溺死した村人が何人もいる。喜三郎自身も明治10年(1877年)の夏、7歳の時に池に落ち溺れそうになったところを祖母・[[宇能]]に助けられた。 | この池は敷地の坤の方位にあるため、裏鬼門の祟りで、上田家の女が七人、溺れて死んだ。上田家以外も溺死した村人が何人もいる。喜三郎自身も明治10年(1877年)の夏、7歳の時に池に落ち溺れそうになったところを祖母・[[宇能]]に助けられた。 | ||
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王仁三郎は〈余はここにおいて、神力の高きを覚ると共に、ますます下等貧賤の人民の境遇の惨澹たる生活を知り、ますます救世的の大決心を定めたのである。本作は、余が従道の志をしてますます強剛ならしめたのであるから、記しておく次第である〉と述べている。 | 王仁三郎は〈余はここにおいて、神力の高きを覚ると共に、ますます下等貧賤の人民の境遇の惨澹たる生活を知り、ますます救世的の大決心を定めたのである。本作は、余が従道の志をしてますます強剛ならしめたのであるから、記しておく次第である〉と述べている。 | ||
== 久兵衛池の整備 == | == 久兵衛池の整備 == | ||
昭和8年(1933年)夏、久兵衛池の周囲に石垣をめぐらし、従来の6倍の広さに池を拡大した。そして11月2日に[[玉水殿]]の斧始式を行い、このときから穴太の[[玉の井]](久兵衛池)の名称を「[[瑞泉苑]] | 昭和8年(1933年)夏、久兵衛池の周囲に石垣をめぐらし、従来の6倍の広さに池を拡大した。そして11月2日に[[玉水殿]]の斧始式を行い、このときから穴太の[[玉の井]](久兵衛池)の名称を「[[瑞泉苑]]」と呼ぶことになった。<ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c5422|神苑の造営と祭事}}」</ref> <ref>昭和8年(1933年)7月13日、久兵衛池拡張工事地鎮祭。11月2日、拡張工事完成・玉水殿斧始式。〔「[[大本年表]]」〕</ref> | ||
== 関連項目 == | == 関連項目 == |