「穴太寺」の版間の差分

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
ページの作成:「'''穴太寺'''(あなおじ)は、亀岡市曽我部町穴太にある寺院。出口王仁三郎は幼少時、この寺の境内にあった小学校に通っていた。 == 概要 == * 宗派:天台宗 * 山号:菩提山(ぼだいさん) * 創建:慶雲二年(705年)文武天皇の御代 * 本尊:聖観世音菩薩 * 西国三十三所の第21番札所 == 偕行小学校 == 穴太寺の念仏堂を木製のついたてで四間に…」
 
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[[ファイル:穴太寺1.jpg|thumb|150px|穴太寺本堂]]
'''穴太寺'''(あなおじ)は、亀岡市曽我部町[[穴太]]にある寺院。[[出口王仁三郎]]は幼少時、この寺の境内にあった小学校に通っていた。
'''穴太寺'''(あなおじ)は、亀岡市曽我部町[[穴太]]にある寺院。[[出口王仁三郎]]は幼少時、この寺の境内にあった小学校に通っていた。


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喜三郎は明治10年(1877年)秋、6歳の時に漆にかぶれ、全身腫れ上がってしまったため、学齢に達しても小学校に行くことができず、9歳(数え10歳)の4月に入学した。喜三郎は下等第8級(最下級)に入学したが、当時は飛び級制度があり、入学前に祖母・[[宇能]]の教育で学力がついていた喜三郎は下等の4年間をわずか2年で卒業した。当時の小学校は、下等科4年(6~10歳)、上等科4年(10~14歳)の計8年であった。
喜三郎は明治10年(1877年)秋、6歳の時に漆にかぶれ、全身腫れ上がってしまったため、学齢に達しても小学校に行くことができず、9歳(数え10歳)の4月に入学した。喜三郎は下等第8級(最下級)に入学したが、当時は飛び級制度があり、入学前に祖母・[[宇能]]の教育で学力がついていた喜三郎は下等の4年間をわずか2年で卒業した。当時の小学校は、下等科4年(6~10歳)、上等科4年(10~14歳)の計8年であった。


偕行小学校には校長の旧亀山藩士・[[出口直道]]<ref>出口姓だが綾部の出口家とは無関係。</ref>と、やはり亀山藩士だった[[吉田有年]]という二人の先生がいた。喜三郎は吉田との間に起きた「タダアイ事件」によって退学となり、相手の吉田も免職の罰を受けた。しかし教員がいなくなってしまったため、出口校長と学務委員(現在の教育委員)の[[斎藤弥兵衛]]は協議して、喜三郎を代用教員に採用して月給2円を支給し、下級の生徒を受け持たせることになった(明治16年3月<ref>年月は「[[大本年表]]」による</ref>)。
偕行小学校には校長の旧亀山藩士・[[出口直道]]<ref>出口姓だが綾部の出口家とは無関係。</ref>と、やはり亀山藩士だった[[吉田有年]]という二人の先生がいた。喜三郎は吉田との間に起きた「[[タダアイ事件]]」によって退学となり、相手の吉田も免職の罰を受けた。しかし教員がいなくなってしまったため、出口校長と学務委員(現在の教育委員)の[[斎藤弥兵衛]]は協議して、喜三郎を代用教員に採用して月給2円を支給し、下級の生徒を受け持たせることになった(明治16年3月<ref>年月は「[[大本年表]]」による</ref>)。


わずか12歳で代用教員となった喜三郎だが、僧侶出身の山本という教員と神道のことで論争し衝突したことが原因で、一年余りで辞職してしまった。
わずか12歳で代用教員となった喜三郎だが、僧侶出身の山本という教員と神道のことで論争し衝突したことが原因で、一年余りで辞職してしまった。

2025年3月31日 (月) 16:50時点における最新版

穴太寺本堂

穴太寺(あなおじ)は、亀岡市曽我部町穴太にある寺院。出口王仁三郎は幼少時、この寺の境内にあった小学校に通っていた。

概要

  • 宗派:天台宗
  • 山号:菩提山(ぼだいさん)
  • 創建:慶雲二年(705年)文武天皇の御代
  • 本尊:聖観世音菩薩
  • 西国三十三所の第21番札所

偕行小学校

穴太寺の念仏堂を木製のついたてで四間に仕切って教室にした「偕行小学校」に上田喜三郎(王仁三郎の幼名)は通っていた。「偕行」とは「尋常」小学校のような学校制度上の名称ではなく、固有名詞のようである。辞書によると「人といっしょに行くこと」〔広辞苑〕を意味する。

喜三郎は明治10年(1877年)秋、6歳の時に漆にかぶれ、全身腫れ上がってしまったため、学齢に達しても小学校に行くことができず、9歳(数え10歳)の4月に入学した。喜三郎は下等第8級(最下級)に入学したが、当時は飛び級制度があり、入学前に祖母・宇能の教育で学力がついていた喜三郎は下等の4年間をわずか2年で卒業した。当時の小学校は、下等科4年(6~10歳)、上等科4年(10~14歳)の計8年であった。

偕行小学校には校長の旧亀山藩士・出口直道[1]と、やはり亀山藩士だった吉田有年という二人の先生がいた。喜三郎は吉田との間に起きた「タダアイ事件」によって退学となり、相手の吉田も免職の罰を受けた。しかし教員がいなくなってしまったため、出口校長と学務委員(現在の教育委員)の斎藤弥兵衛は協議して、喜三郎を代用教員に採用して月給2円を支給し、下級の生徒を受け持たせることになった(明治16年3月[2])。

わずか12歳で代用教員となった喜三郎だが、僧侶出身の山本という教員と神道のことで論争し衝突したことが原因で、一年余りで辞職してしまった。

【主な参考文献】

  • 大本七十年史 上巻』「幼年期#
  • 『大本七十年史 上巻』「偕行小学校#」~「神道への関心#
  • 学制 - ウィキペディア

外部リンク

脚注

  1. 出口姓だが綾部の出口家とは無関係。
  2. 年月は「大本年表」による