「玉鉾神社」の版間の差分
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昭和23年(1948年)1月19日に王仁三郎は昇天する。昭弘や窪田の記憶では、その時には光彦はもう愛善苑にいなかった。その当時の噂では〈郷里の愛媛県新居浜に帰って新興宗教のようなものをやっているらしいということだった〉。<ref>武者『史談~』333頁(江馬「諸国相撲帖」からの転載文)には、三代宮司になる前は愛媛県新居浜市の市役所に勤務していた旨が記されている。</ref> | 昭和23年(1948年)1月19日に王仁三郎は昇天する。昭弘や窪田の記憶では、その時には光彦はもう愛善苑にいなかった。その当時の噂では〈郷里の愛媛県新居浜に帰って新興宗教のようなものをやっているらしいということだった〉。<ref>武者『史談~』333頁(江馬「諸国相撲帖」からの転載文)には、三代宮司になる前は愛媛県新居浜市の市役所に勤務していた旨が記されている。</ref> | ||
昭和28年(1953年)に〈光彦氏は神示によって琵琶湖の竹生島に全国から十六人の人を集めて、何かの神事をした〉〈その中に旭形二代目の亀之助の妻静子さんも参加していて、光彦さん夫婦を見て養子になることを懇請した〉。(「何かの神事」とは[[裏神業]]系の神業だと思われる<ref>玉鉾神社に保存されている、この時の神業の記録によると、神業参加者名簿に菰野の[[辻正道]]の名が記されている。</ref>) | |||
光彦が奉仕時代に王仁三郎から与えられた、王仁三郎揮毫の神像の掛軸と、小さな木彫りの観音像が、玉鉾神社に保存されている。 | 光彦が奉仕時代に王仁三郎から与えられた、王仁三郎揮毫の神像の掛軸と、小さな木彫りの観音像が、玉鉾神社に保存されている。 | ||
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** 『宗教家名鑑 昭和29年版』1954年、日本宗教時報社、8頁(神宮教)、{{ndldl|2976952/1/13}} | ** 『宗教家名鑑 昭和29年版』1954年、日本宗教時報社、8頁(神宮教)、{{ndldl|2976952/1/13}} | ||
** 『宗教年鑑 昭和59年版』1984年、文化庁、3頁右下(神宮教) | ** 『宗教年鑑 昭和59年版』1984年、文化庁、3頁右下(神宮教) | ||
尊皇派の志士で宮内省御用掛を務めた小河一敏(おごう かずとし)が明治18年(1885年)に孝明天皇廟を東京に建造するよう明治天皇に建議したことがある。 | |||
* {{pid|11899344|封事(孝明天皇廟ヲ東京ニ建造ノ件)}} | |||
* {{wp|小河一敏}} | |||
大正以降、孝明天皇を祀る孝明神宮を建立しようという動きが起きている。これは明治天皇を祀る明治神宮が建立(崩御翌月には創建のための委員会が組織され、大正9年に鎮座祭が行われて創建)されたことに刺激を受けたようである。この動きが平安神宮への孝明天皇合祀という形で結実した。 | |||
* [https://dl.ndl.go.jp/pid/7941606/1/10?keyword=%E5%AD%9D%E6%98%8E%E7%A5%9E%E5%AE%AE 報道例1]、[https://dl.ndl.go.jp/pid/11206997/1/43?keyword=%E5%AD%9D%E6%98%8E%E7%A5%9E%E5%AE%AE 報道例2] | |||
* [https://dl.ndl.go.jp/pid/12266900/1/242?keyword=%E5%AD%9D%E6%98%8E%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E3%80%80%E5%B9%B3%E5%AE%89%E7%A5%9E%E5%AE%AE 加藤隆久著『神社の史的研究』1976年、466頁「平安神宮に於ける孝明天皇奉祀に関する経緯」] | |||
== 参考文献 == | == 参考文献 == | ||
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[[Category:神社]] | [[Category:神社]] | ||
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