「玉鉾神社」の版間の差分
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明治29年(1896年)8月、神社建設が着工された。神社用地は約1万9千坪あり、名古屋に住む帝室技芸員・伊藤平左衛門が、熱田神宮を模した神社の設計と施工を担当した。 | 明治29年(1896年)8月、神社建設が着工された。神社用地は約1万9千坪あり、名古屋に住む帝室技芸員・伊藤平左衛門が、熱田神宮を模した神社の設計と施工を担当した。 | ||
明治30年(1897年)6月、第一期工事が終了する。ところが当局は神社の申請に対し、単に御物のみでは法規上認可できないと却下した<ref>『[[史談会速記録]]』では、明治30年12月に内務省に公認願を出し、31年3月不認可となり、同5月に再願書を出し、インタビューが行われている10月8日現在まだ結果が出ていないと旭形は語っている。〔66頁(合本392頁)〕</ref>。旭形は愛知県知事・沖守固(おき もりかた)<ref>沖守固は明治31年(1898年)12月から明治35年(1902年)5月まで愛知県知事を務めた。</ref>等の助言もあり、古くなった八幡社を移転するという形を取って再度申請した。この八幡社は、愛知県中島郡一宮町(現・一宮市<ref>大正10年から市制実施。</ref>)に鎮座する尾張国一宮で国幣小社<ref>大正3年(1914年)に国幣中社に昇格。</ref>「真清田(ますみだ)神社」<ref>真清田(ますみだ)神社:愛知県一宮市真清田1-2-1。主祭神:天火明命。 | 明治30年(1897年)6月、第一期工事が終了する。ところが当局は神社の申請に対し、単に御物のみでは法規上認可できないと却下した<ref>『[[史談会速記録]]』では、明治30年12月に内務省に公認願を出し、31年3月不認可となり、同5月に再願書を出し、インタビューが行われている10月8日現在まだ結果が出ていないと旭形は語っている。〔66頁(合本392頁)〕</ref>。旭形は愛知県知事・沖守固(おき もりかた)<ref>沖守固は明治31年(1898年)12月から明治35年(1902年)5月まで愛知県知事を務めた。</ref>等の助言もあり、古くなった八幡社を移転するという形を取って再度申請した。この八幡社は、愛知県中島郡一宮町(現・一宮市<ref>大正10年から市制実施。</ref>)に鎮座する尾張国一宮で国幣小社<ref>大正3年(1914年)に国幣中社に昇格。</ref>「真清田(ますみだ)神社」<ref>真清田(ますみだ)神社:愛知県一宮市真清田1-2-1。主祭神:天火明命。{{wp|真清田神社}} / {{pid|957838|国幣中社真清田神社御由緒}}大正7年(1918年)</ref>の末社の無格社で、古くなったため他に合祀しようとしていたのを譲り受け、武豊町に移転させたのである。<ref>大正12年(1923年)発行の『知多郡史 下巻』では、玉鉾神社の祭神は品陀和気命(応神天皇。八幡社の祭神)になっている。{{ndldl|978748/1/199}}</ref> | ||
明治32年(1899年)11月28日、当局の認可が下りた。同年12月、真清田神社宮司らによって八幡社の遷宮式が挙行され、同時に「玉鉾神社」に改名された。神官の資格を得るため旭形は勉学に励んだ。 | 明治32年(1899年)11月28日、当局の認可が下りた。同年12月、真清田神社宮司らによって八幡社の遷宮式が挙行され、同時に「玉鉾神社」に改名された。神官の資格を得るため旭形は勉学に励んだ。 | ||
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明治34年(1901年)3月12日<ref>逝去した日は諸説あり。「[[旭形亀太郎#経歴]]」を見よ</ref>、旭形は同病院で逝去。満58歳。 | 明治34年(1901年)3月12日<ref>逝去した日は諸説あり。「[[旭形亀太郎#経歴]]」を見よ</ref>、旭形は同病院で逝去。満58歳。 | ||
* | * {{wp|小松宮彰仁親王}} | ||
* | * {{wp|沖守固}} | ||
== 旭形亀太郎の没後 == | == 旭形亀太郎の没後 == | ||
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三代・光彦の没後は、子息の幸彦が四代宮司となり跡を継いだ。 | 三代・光彦の没後は、子息の幸彦が四代宮司となり跡を継いだ。 | ||
* | * {{wp|盛厚王}} | ||
== 出口王仁三郎との関わり == | == 出口王仁三郎との関わり == | ||
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昭和23年(1948年)1月19日に王仁三郎は昇天する。昭弘や窪田の記憶では、その時には光彦はもう愛善苑にいなかった。その当時の噂では〈郷里の愛媛県新居浜に帰って新興宗教のようなものをやっているらしいということだった〉。<ref>武者『史談~』333頁(江馬「諸国相撲帖」からの転載文)には、三代宮司になる前は愛媛県新居浜市の市役所に勤務していた旨が記されている。</ref> | 昭和23年(1948年)1月19日に王仁三郎は昇天する。昭弘や窪田の記憶では、その時には光彦はもう愛善苑にいなかった。その当時の噂では〈郷里の愛媛県新居浜に帰って新興宗教のようなものをやっているらしいということだった〉。<ref>武者『史談~』333頁(江馬「諸国相撲帖」からの転載文)には、三代宮司になる前は愛媛県新居浜市の市役所に勤務していた旨が記されている。</ref> | ||
昭和28年(1953年)に〈光彦氏は神示によって琵琶湖の竹生島に全国から十六人の人を集めて、何かの神事をした〉〈その中に旭形二代目の亀之助の妻静子さんも参加していて、光彦さん夫婦を見て養子になることを懇請した〉。(「何かの神事」とは[[裏神業]]系の神業だと思われる<ref>玉鉾神社に保存されている、この時の神業の記録によると、神業参加者名簿に菰野の[[辻正道]]の名が記されている。</ref>) | |||
光彦が奉仕時代に王仁三郎から与えられた、王仁三郎揮毫の神像の掛軸と、小さな木彫りの観音像が、玉鉾神社に保存されている。 | 光彦が奉仕時代に王仁三郎から与えられた、王仁三郎揮毫の神像の掛軸と、小さな木彫りの観音像が、玉鉾神社に保存されている。 | ||
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== 孝明天皇を奉斎する神社 == | == 孝明天皇を奉斎する神社 == | ||
玉鉾神社以外に、孝明天皇を主祭神とする神社として京都市の'''平安神宮'''がある。平安神宮は明治28年(1895年)に平安遷都1100年を記念して創建された。創建当初は、遷都を行った第50代桓武天皇だけが祀られていたが、皇紀2600年の昭和15年(1940年)に、平安京最後の天皇である第121代孝明天皇も祭神に加えられた。 | |||
『明治維新神道百年史』<ref>岡田米夫「神宮・神社創建史」『明治維新神道百年史 第二巻』1966年、神道文化会、89頁、{{ndldl|12265695/1/48}}</ref>によると、玉鉾神社と平安神宮以外に、次の2社も孝明天皇を奉斎しているようである。ただし両社とも、実際の祭神は孝明天皇ではなく、由緒が孝明天皇にまつわるため孝明天皇を奉斎していると言われているようである。 | 『明治維新神道百年史』<ref>岡田米夫「神宮・神社創建史」『明治維新神道百年史 第二巻』1966年、神道文化会、89頁、{{ndldl|12265695/1/48}}</ref>によると、玉鉾神社と平安神宮以外に、次の2社も孝明天皇を奉斎しているようである。ただし両社とも、実際の祭神は孝明天皇ではなく、由緒が孝明天皇にまつわるため孝明天皇を奉斎していると言われているようである。 | ||
* | * '''厳橿'''(いつかし)'''神社''':兵庫県淡路市仁井(にい)。国学者の[[鈴木重胤]](1812~1863年)が故郷に創建した。「厳橿」とは広辞苑によると「神威のある、繁茂した樫(かし)の木」のこと。(詳細は以下の文献を参照) | ||
** 谷省吾『鈴木重胤の研究(神道史研究叢書四)』1968年、神道史学会、203頁「厳橿神社の創祀」、{{ndldl|2968343/1/115}} | ** 谷省吾『鈴木重胤の研究(神道史研究叢書四)』1968年、神道史学会、203頁「厳橿神社の創祀」、{{ndldl|2968343/1/115}} | ||
** 「淡路に於ける鈴木大人慰霊祭」『國學院雜誌(第39巻第12号)』、昭和8年(1933年)12月、國學院大學、{{ndldl|3365114/1/58}} | ** 「淡路に於ける鈴木大人慰霊祭」『國學院雜誌(第39巻第12号)』、昭和8年(1933年)12月、國學院大學、{{ndldl|3365114/1/58}} | ||
** 兵庫県神職会・編『兵庫県神社誌 下巻』昭和13年(1938年)、兵庫県神職会、1099頁、{{ndldl|1257539/1/566}} | ** 兵庫県神職会・編『兵庫県神社誌 下巻』昭和13年(1938年)、兵庫県神職会、1099頁、{{ndldl|1257539/1/566}} | ||
* | * '''丹波太神宮''':兵庫県丹波篠山市畑宮。教派神道系の宗教法人神宮教の本部。佐佐婆神社と同一境内地に鎮座している。(詳細は以下の文献を参照) | ||
** 『篠山町七十五年史』1955年、篠山町、142頁(神宮教)、{{ndldl|2995179/1/108}} | ** 『篠山町七十五年史』1955年、篠山町、142頁(神宮教)、{{ndldl|2995179/1/108}} | ||
** 『宗教家名鑑 昭和29年版』1954年、日本宗教時報社、8頁(神宮教)、{{ndldl|2976952/1/13}} | ** 『宗教家名鑑 昭和29年版』1954年、日本宗教時報社、8頁(神宮教)、{{ndldl|2976952/1/13}} | ||
** 『宗教年鑑 昭和59年版』1984年、文化庁、3頁右下(神宮教) | ** 『宗教年鑑 昭和59年版』1984年、文化庁、3頁右下(神宮教) | ||
尊皇派の志士で宮内省御用掛を務めた小河一敏(おごう かずとし)が明治18年(1885年)に孝明天皇廟を東京に建造するよう明治天皇に建議したことがある。 | |||
* {{pid|11899344|封事(孝明天皇廟ヲ東京ニ建造ノ件)}} | |||
* {{wp|小河一敏}} | |||
大正以降、孝明天皇を祀る孝明神宮を建立しようという動きが起きている。これは明治天皇を祀る明治神宮が建立(崩御翌月には創建のための委員会が組織され、大正9年に鎮座祭が行われて創建)されたことに刺激を受けたようである。この動きが平安神宮への孝明天皇合祀という形で結実した。 | |||
* [https://dl.ndl.go.jp/pid/7941606/1/10?keyword=%E5%AD%9D%E6%98%8E%E7%A5%9E%E5%AE%AE 報道例1]、[https://dl.ndl.go.jp/pid/11206997/1/43?keyword=%E5%AD%9D%E6%98%8E%E7%A5%9E%E5%AE%AE 報道例2] | |||
* [https://dl.ndl.go.jp/pid/12266900/1/242?keyword=%E5%AD%9D%E6%98%8E%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E3%80%80%E5%B9%B3%E5%AE%89%E7%A5%9E%E5%AE%AE 加藤隆久著『神社の史的研究』1976年、466頁「平安神宮に於ける孝明天皇奉祀に関する経緯」] | |||
== 参考文献 == | == 参考文献 == | ||
主要参考文献は →「[[旭形亀太郎#参考文献]]」 | |||
* 『教林(第42号)』明治29年(1896年)12月25日発行、教林社、33頁下段、{{ndldl|11206474/1/18}} | |||
* 『愛知県独案内』明治33年(1900年)、愛知県農会、242頁、{{ndldl|764812/1/129}} | |||
* 飯田吉之助『一宮市史 巻之上』大正12年(1923年)、一の宮新聞社、186頁、{{ndldl|978708/1/114}}、武豊町に遷座する前の八幡社について | |||
== 関連項目 == | == 関連項目 == | ||
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* [https://www.instagram.com/tamahoko.16/ 玉鉾神社](インスタ) | * [https://www.instagram.com/tamahoko.16/ 玉鉾神社](インスタ) | ||
* [https://www.facebook.com/profile.php?id=100010512933744 旭形幸彦](現・宮司、フェイスブック) | * [https://www.facebook.com/profile.php?id=100010512933744 旭形幸彦](現・宮司、フェイスブック) | ||
* | * {{wp|孝明天皇}} | ||
== 脚注 == | == 脚注 == | ||
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{{デフォルトソート:たまほこしんしや}} | {{デフォルトソート:たまほこしんしや}} | ||
[[Category:神社]] | [[Category:神社]] | ||
[[Category:玉鉾神社|*]] | |||
[[Category:切紙神示]] | |||