「浅野和三郎」の版間の差分
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* 明治33年(1900年)横須賀の海軍機関学校の英語教官となる。 | * 明治33年(1900年)横須賀の海軍機関学校の英語教官となる。 | ||
* 大正4年(1915年)[[大本]]と出会う。 | * 大正4年(1915年)[[大本]]と出会う。 | ||
* | * 大正5年(1916年)初[[参綾]]。年末に綾部に移住。(42歳) | ||
* 大正6年(1917年)機関誌『[[神霊界]]』主筆兼編集長となる。 | * 大正6年(1917年)機関誌『[[神霊界]]』主筆兼編集長となる。 | ||
* 大正8年(1919年)[[大日本修斎会]]の総裁となる。 | * 大正8年(1919年)[[大日本修斎会]]の総裁となる。 | ||
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浅野は大本の沿革・教義等を略説した文章を書いて発表しようとしたが、それを掲載してくれる雑誌は少なかった。そのため自分で雑誌を発行しようと決心した<ref>『出廬』239頁。</ref>。 | 浅野は大本の沿革・教義等を略説した文章を書いて発表しようとしたが、それを掲載してくれる雑誌は少なかった。そのため自分で雑誌を発行しようと決心した<ref>『出廬』239頁。</ref>。 | ||
11月28日に[[王仁三郎]]が[[村野滝州]]を伴い、浅野を迎えに綾部から横須賀へやって来た<ref>『出廬』270頁。</ref> <ref>「[[大本年表]]」の大正5年11月28日の項に〈聖師、村野を伴い横須賀方面へ巡教〉とある。</ref>。 | 11月28日に[[王仁三郎]]が[[村野滝州]]を伴い、浅野を迎えに綾部から横須賀へやって来た<ref>『出廬』270頁。</ref> <ref>「[[大本年表]]」の大正5年11月28日の項に〈聖師、村野を伴い横須賀方面へ巡教〉とある。</ref>。<ref name="srk19170201">『神霊界』大正6年(1917年)2月1日号、27頁、「大本通信」</ref> | ||
12月10日、浅野は家族と共に横須賀を発ち汽車で綾部に向かう。この時、王仁三郎・村野滝州と、八丈島の奥山親子も一緒だった。翌11日に綾部に着いた。<ref>『[[出廬]]』278頁。『[[冬籠]]』3、5頁。</ref> | 12月10日、浅野は家族と共に横須賀を発ち汽車で綾部に向かう。この時、王仁三郎・村野滝州と、八丈島の奥山親子も一緒だった。翌11日に綾部に着いた。<ref>『[[出廬]]』278頁。『[[冬籠]]』3、5頁。</ref> <ref name="srk19170201" /> | ||
綾部に向かう汽車の中で王仁三郎に雑誌刊行の話をしたところ、大本の機関誌『[[敷島新聞]]』を『[[神霊界]]』に改題し、1月1日から発行することに決まった<ref>『冬籠』7~8頁</ref>。 | 綾部に向かう汽車の中で王仁三郎に雑誌刊行の話をしたところ、大本の機関誌『[[敷島新聞]]』を『[[神霊界]]』に改題し、1月1日から発行することに決まった<ref>『冬籠』7~8頁</ref>。 |