「浅野和三郎」の版間の差分

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* 明治33年(1900年)横須賀の海軍機関学校の英語教官となる。
* 明治33年(1900年)横須賀の海軍機関学校の英語教官となる。
* 大正4年(1915年)[[大本]]と出会う。
* 大正4年(1915年)[[大本]]と出会う。
* 大正5年(1916年)初参綾。年末に綾部に移住。(42歳)
* 大正5年(1916年)初[[参綾]]。年末に綾部に移住。(42歳)
* 大正6年(1917年)機関誌『[[神霊界]]』主筆兼編集長となる。
* 大正6年(1917年)機関誌『[[神霊界]]』主筆兼編集長となる。
* 大正8年(1919年)[[大日本修斎会]]の総裁となる。
* 大正8年(1919年)[[大日本修斎会]]の総裁となる。
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4月下旬、王仁三郎を迎えるため妻と長男を綾部に行かせる。4月28日、妻・長男と共に王仁三郎が横須賀にやって来た<ref>『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195401c2132|浅野の入信}}」では、4月28日に王仁三郎は「浅野夫妻」らと綾部を出発し横須賀にやって来たと記されているが、間違いであろう。『出廬』({{obc|B142400c25|2-8}}83頁)によると妻・長男と共に王仁三郎は綾部を発ち横須賀に来た。</ref>。以降、浅野は母屋から離れた書斎を王仁三郎の居間として使ってもらい、人を集めて教えの勉強や、[[鎮魂帰神]]の実習を行う。この鎮魂帰神の修業が〈これが自分にとりてもまた大本に取りても、一大転換期を画すべき重大事件であったとは後に至りて思ひ知られた〉<ref>『出廬』85頁</ref>。
4月下旬、王仁三郎を迎えるため妻と長男を綾部に行かせる。4月28日、妻・長男と共に王仁三郎が横須賀にやって来た<ref>『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195401c2132|浅野の入信}}」では、4月28日に王仁三郎は「浅野夫妻」らと綾部を出発し横須賀にやって来たと記されているが、間違いであろう。『出廬』({{obc|B142400c25|2-8}}83頁)によると妻・長男と共に王仁三郎は綾部を発ち横須賀に来た。</ref>。以降、浅野は母屋から離れた書斎を王仁三郎の居間として使ってもらい、人を集めて教えの勉強や、[[鎮魂帰神]]の実習を行う。この鎮魂帰神の修業が〈これが自分にとりてもまた大本に取りても、一大転換期を画すべき重大事件であったとは後に至りて思ひ知られた〉<ref>『出廬』85頁</ref>。


王仁三郎が横須賀に滞在して4日目、走水神社(横須賀市走水。日本武尊と弟橘媛を鎮祭)に一同で参拝。ここで鎮魂中に[[村野滝州]](綾部から王仁三郎と共に横須賀にやって来た信者)の天眼に、先ほど拾った石笛は「木花咲耶姫尊の命により小桜姫これを浅野に授く」、という文字が見えた。その晩、自宅の書斎(王仁三郎の居間)で人が集まり鎮魂していると、浅野の妻・多慶子が神がかりし「小桜姫」と口を切った。〈さては小桜姫とは妻の守護神であったのか〉<ref>『出廬』112頁</ref>。<ref>『出廬』80~114頁。『神の罠』117頁~</ref>
王仁三郎が横須賀に滞在して4日目、走水神社(横須賀市走水。日本武尊と弟橘媛を鎮祭)<ref>{{wp|走水神社 (横須賀市)}}</ref>に一同で参拝。ここで鎮魂中に[[村野滝州]](綾部から王仁三郎と共に横須賀にやって来た信者)の天眼に、先ほど拾った石笛は「木花咲耶姫尊の命により小桜姫これを浅野に授く」、という文字が見えた。その晩、自宅の書斎(王仁三郎の居間)で人が集まり鎮魂していると、浅野の妻・多慶子が神がかりし「小桜姫」と口を切った。〈さては小桜姫とは妻の守護神であったのか〉<ref>『出廬』112頁</ref>。<ref>『出廬』80~114頁。『神の罠』117頁~</ref>


5月初旬に王仁三郎は村野と共に横須賀を発ち西へ帰った<ref>『出廬』122頁</ref> <ref>「[[大本年表]]」には大正5年4月28日「聖師、横須賀、東京へ巡教」。5月9日「聖師、大阪へ巡教」と記されている。</ref>。まだ修業の身の浅野たちを置き去りにして王仁三郎が帰ったのは神の試練であり、〈言はば自力で立て、自力で学べ、自力で悟れ、他にたよるなといふ事の、実地教育を施されたものであった〉<ref>『出廬』123頁</ref>。
5月初旬に王仁三郎は村野と共に横須賀を発ち西へ帰った<ref>『出廬』122頁</ref> <ref>「[[大本年表]]」には大正5年4月28日「聖師、横須賀、東京へ巡教」。5月9日「聖師、大阪へ巡教」と記されている。</ref>。まだ修業の身の浅野たちを置き去りにして王仁三郎が帰ったのは神の試練であり、〈言はば自力で立て、自力で学べ、自力で悟れ、他にたよるなといふ事の、実地教育を施されたものであった〉<ref>『出廬』123頁</ref>。
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浅野は大本の沿革・教義等を略説した文章を書いて発表しようとしたが、それを掲載してくれる雑誌は少なかった。そのため自分で雑誌を発行しようと決心した<ref>『出廬』239頁。</ref>。
浅野は大本の沿革・教義等を略説した文章を書いて発表しようとしたが、それを掲載してくれる雑誌は少なかった。そのため自分で雑誌を発行しようと決心した<ref>『出廬』239頁。</ref>。


11月28日に[[王仁三郎]]が[[村野滝州]]を伴い、浅野を迎えに綾部から横須賀へやって来た<ref>『出廬』270頁。</ref> <ref>「[[大本年表]]」の大正5年11月28日の項に〈聖師、村野を伴い横須賀方面へ巡教〉とある。</ref>。
11月28日に[[王仁三郎]]が[[村野滝州]]を伴い、浅野を迎えに綾部から横須賀へやって来た<ref>『出廬』270頁。</ref> <ref>「[[大本年表]]」の大正5年11月28日の項に〈聖師、村野を伴い横須賀方面へ巡教〉とある。</ref>。<ref name="srk19170201">『神霊界』大正6年(1917年)2月1日号、27頁、「大本通信」</ref>


12月10日、浅野は家族と共に横須賀を発ち汽車で綾部に向かう。この時、王仁三郎・村野滝州と、八丈島の奥山親子も一緒だった。翌11日に綾部に着いた。<ref>『[[出廬]]』278頁。『[[冬籠]]』3、5頁。</ref>
12月10日、浅野は家族と共に横須賀を発ち汽車で綾部に向かう。この時、王仁三郎・村野滝州と、八丈島の奥山親子も一緒だった。翌11日に綾部に着いた。<ref>『[[出廬]]』278頁。『[[冬籠]]』3、5頁。</ref> <ref name="srk19170201" />


綾部に向かう汽車の中で王仁三郎に雑誌刊行の話をしたところ、大本の機関誌『[[敷島新聞]]』を『[[神霊界]]』に改題し、1月1日から発行することに決まった<ref>『冬籠』7~8頁</ref>。
綾部に向かう汽車の中で王仁三郎に雑誌刊行の話をしたところ、大本の機関誌『[[敷島新聞]]』を『[[神霊界]]』に改題し、1月1日から発行することに決まった<ref>『冬籠』7~8頁</ref>。