コンテンツにスキップ
メインメニュー
メインメニュー
サイドバーに移動
非表示
案内
メインページ
王仁DBで検索
Googleで検索
カテゴリから探す
最近作られたページ
最近の更新
おまかせ表示
編集者用
著作権について
Onipedia
検索
検索
表示
ログイン
個人用ツール
ログイン
玉川研究所のソースを表示
ページ
議論
日本語
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
ツール
ツール
サイドバーに移動
非表示
操作
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
全般
リンク元
関連ページの更新状況
ページ情報
表示
サイドバーに移動
非表示
←
玉川研究所
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
この操作は、次のグループに属する利用者のみが実行できます:
登録利用者
。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
[[ファイル:昭和神聖会映画部玉川研究所.jpg|thumb|玉川研究所で撮影された写真]] [[ファイル:出口王仁三郎(昭和10年玉川研究所).jpg|thumb|玉川研究所で撮影された写真]] '''玉川研究所'''(たまがわけんきゅうじょ)は、[[昭和神聖会]]映画部の施設。東京市世田谷区の玉川<ref>明治22年(1889年)に東京府荏原郡玉川村が発足。昭和7年(1932年)10月1日に荏原郡全域が東京市に編入され、世田谷区が設置。旧玉川村の地域の町名には頭に「玉川」が付けられた。{{wp|玉川村_(東京府)}}</ref>にあった。昭和10年6月の開設されたが、ここでの映画制作は失敗し、8月に閉鎖された。 == 概要 == 昭和10年(1935年)6月1日、[[昭和神聖会]]は映画部を設置。東京の多摩川の河畔に建設された作られた「玉川研究所」の開所式及び鎮座祭が執行された。副統管の[[出口宇知麿]]が臨席した。<ref name="B195402c5309">『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c5309|創立一周年}}」</ref> <ref name="on">「[[大本年表]]」</ref> 部長に[[原真平]]、次長に[[中山勇次郎]]が任命された。<ref name="B195402c5309" /> 住所は世田谷区玉川町。地番は世田谷区660番地<ref>「{{obc|B195502c22052|総本部日記 昭和10年}}」6月1日の項。</ref>。→その具体的な場所について「[[トーク:玉川研究所]]」 原が所有していた元舞踊研究所の建物を改修して作られた。<ref name="B195502c22052">「{{obc|B195502c22052|総本部日記 昭和10年}}」</ref> 玉川に施設を建てる計画は遅くとも4月から動き出している。4月19日に宇知麿らが亀岡から東京・玉川に視察に訪れており、5月8日に研究所建築の修祓式が執行されている。<ref name="B195502c22052" /> 統管の[[出口王仁三郎]]は7月26日に玉川研究所を訪問、宿泊し、翌27日に出発している。(27日夜に横浜で下記『[[皇軍と少女]]』の試写会)<ref name="B195502c22052" /> 玉川研究所ではまず最初に、映画『[[皇軍と少女]]』制作に着手した。17.5mmフィルムを使用し、全10巻。<ref name="B195402c5309" /> 同年7月27日、横浜で王仁三郎臨席のもと、『皇軍と少女』の試写会が開かれた。 <ref name="on" /> しかし試写だけで公開はされなかった。理由は技術的に未熟で公開できるようなものではなかったからである。[[第二次大本事件]]の裁判で、裁判長の質問に対して王仁三郎は〈迚も下手な映画〉だったと答えている。また〈玉川へ行きますと、面白うなかつたから、私が止めてしまへと止めさしてしまつたのです〉と答えており、王仁三郎の指示で映画部は廃止となった<ref>「{{obc|B195503c220210|地裁公判速記録(10)}}」</ref>。玉川研究所は8月中に閉鎖された<ref name="B195402c5423">『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c5423|文書宣伝}}」</ref>。 この映画は8月10日(旧7月12日)の[[聖師生誕祭]]までに公開するという予定で急ピッチで作られた。そのため7月27日に試写することが出来た。しかし演出その他の点においてスタッフが未経験であるばかりか、中心となる[[原真平]]の撮影技術も未熟だったようで、欠陥だらけの作品となってしまった。また玉川研究所の幹部役員の間で原真平の技術や指導力に対する不満が噴出し、資金調達も順調に行かないなど、複数の理由によって玉川研究所の事業継続が困難となった。そのため昭和神聖会首脳部は玉川研究所の解散を決め、8月上旬に関係者を引責辞任させ、8月下旬には原真平との関係も一切絶って、玉川研究所は名実ともに閉鎖となった。<ref>『[[戦前における右翼団体の状況]] 下巻 その一』101~106頁</ref> 9月5日には玉川研究所に奉斎されてあった神霊が総本部へ遷座された。<ref name="B195502c22052" /> 同じく9月5日、天恩郷に昭和神聖会の映画神劇部(映画部と神劇部)が設置される<ref name="B195402c5423" /> <ref name="on" />。10月8日から、自伝映画「[[聖師伝 (映画)|聖師伝]]」のうち「霊山修業」の撮影が映画神劇部によって始められた。<ref name="B195402c5423" /> <ref name="B195502c22052" /> == 関連項目 == * [[原真平]]:藤浪無鳴という芸名で無声映画の弁士として活躍。外国映画の輸入・配給を行う「大日本映画協会」を設立。 * 『[[戦前における右翼団体の状況]] 下巻 その一』昭和40年(1965年)11月、公安調査庁:本書は当局側の資料だが玉川研究所の内部事情に関して大本側の資料よりも詳しい情報が記されている。101~106頁「二、映画部の創設」、{{ndldl|3032347/1/61}} * [[昭和の七福神]]:出口王仁三郎主演・監督の映画。8月22日から25日にかけて亀岡で撮影された。 * [[聖師伝 (映画)|聖師伝]]:王仁三郎の自伝映画。 == 外部リンク == * [https://dl.ndl.go.jp/pid/7965155/1/15?keyword=%E5%8E%9F%E7%9C%9F%E5%B9%B3 キネマ週報 (247) 35頁「老フアン日記」]:7月11日に映画部の原真平部長がキネマ週報社を訪問したことが記されている。 == 脚注 == <references/> {{デフォルトソート:たまかわけんきゆうしよ}} [[Category:音声・映像]] [[Category:昭和神聖会]]
このページで参照読み込みされているページ:
テンプレート:Ndldl
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Obc
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Obc000
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Wp
(
ソースを閲覧
)
玉川研究所
に戻る。
検索
検索
玉川研究所のソースを表示
話題を追加